そこで宗久、考えた。「紹鷗の遺産の内、目玉中の目玉といえる『紹鷗茄子』を信長に差し出してしもたれ。そうすりゃ宗瓦も文句言えんし手も出せんやろ!名案やわ」。
まぁ、そんな思惑もあったんじゃないか、という話なのだが。実際この紹鷗小茄子については後に「紹鷗死去の後、今井宗久が預かった。本来の持ち主は武野宗瓦だったが、宗久と宗瓦がトラブったときに信長へ進上された」と記録されている(『山上宗二記』)。名物茶器のやりとりの裏には、そんな事情が隠されていたのだ。
茶器を使った遊泳術
ところがどっこい、書状によると宗瓦は宗久から「紹鷗茄子」とともに揉め事の解決を持ち込まれた信長の和解案をにべもなく断ったことが分かる。さすが苦労知らずのKYボーイだが、案の定信長は怒った。
そりゃそうでしょ。何せ数年後、信長は課税を拒否した堺の魚市の10人衆を死刑にしてしまったという伝承があるぐらいで、その点宗瓦は運が良い方だったと言える。宗久に紹鷗遺産のすべてを与えるというだけで命には別状が無かったのだから。
宛先が松永久秀だったのは、かつて合戦に負けて逃げ込み匿ってもらったほどズブズブの間柄だったためにこの時期信長から堺への取次役を任されていたのだろう。
同書には続きに「十ヶ年後、信長より宗久拝領」と書かれているから、天正6年(1578年)には「紹鷗茄子」はふたたび宗久に下げ渡されたらしい。
ともかく、宗久の計算は神っている。「紹鷗茄子」を差し出して武野宗瓦との悶着まで信長に委ね、それで宗瓦が自滅すると紹鷗の遺産を全て公式に相続し、さらに10年後には「紹鷗茄子」そのものも宗久の手に戻ったのだから。それも、どうやら宗久の運動というよりは宗瓦がこの天正6年の3月1日を最後に記録から消えてしまったのが原因だったようだ。
本願寺の関係者の娘を妻に迎えていた宗瓦は天正9年(1581年)に、信長から「織田家と敵対中の本願寺に内通した」と責められ追放されたと伝わるのだが(『武野家系図』)、史実ではその前年に本願寺は信長に降伏している。だから、宗瓦が追放されたのは天正8年(1580年)以前、特に本願寺との戦いが最も苛烈だった天正6年(1578年)までの話と考えるのが自然なんです。だから、宗瓦が追放されたために揉め事が再発する可能性も完全に無くなったとして信長は「紹鷗茄子」を宗久に下げ渡したとすれば、時系列的にはピタリと合うよね。
値(あたい)600貫(5000万円)の茶器を動かすことによって係争を避けて全てを手に入れ、さらにその代金をオーバー気味に受け取り、あまつさえ茶器そのものもゲットアゲイン。こんな名人芸ってある?
マネー術というより遊泳術といった観さえある宗久の立ち回りだが、一応弁護しておくと、彼は天正6年以前に3度茶会で宗瓦と同席している。その間に少なくとも一部の茶器は宗瓦へ返還されていた様だから、彼としては義兄弟の宗瓦を見捨てる気持ちはサラサラ無かったようだ。
結局宗瓦は豊臣秀吉の時代になっても追放処分を受けるなど、どうも世渡りの下手さが生涯抜けずじまいになってしまい、義兄の宗久としても頭の痛いところだっただろう。彼は結局手元の「紹鷗茄子」を秀吉に献上しているのだが、これも宗瓦を取り成すためだったかも知れない。