2024年11月25日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年8月10日

 もちろん人海戦術。重機など存在しない、マンパワー頼りの戦国時代だ。6000~7000人が引っ張ったひときわ大きな石などは、少し片側へ横滑りしただけで150人以上が押しつぶされて死んでしまったという。さらに「蛇石」と呼ばれる巨大石に至っては、1万人が3日がかりでやっと天主に上げられた。

名物茶器に目の色を変えた男たち

 面白いのは、この「蛇石」搬送を指揮したメンツなのだが、羽柴秀吉、続いて滝川一益の名があがり、最後に奉行の長秀が記録されている。珠光茶碗は褒美であると同時に信長流「一層奮励努力セヨ」の急(せ)かしでもあるから、長秀が必死に働くのは当たり前。

 注目したいのは、秀吉と一益だ。

 まずは秀吉。彼は2カ月前、野瀬太郎左衛門尉という男にこう書き送っている。

 「あちこちの茶園のメンテナンスがないがしろになっており、最近の請口の茶の生産量が減っている。また、茶園をやめようという者もいるとか。けしからんことだ。きつく命じて茶の生産を向上させるよう指導しろ。もし茶の請主が逐電したら、その土地や寺の皆でメンテナンスして茶を献納させよ。怠るようなら必ず厳しく督促するぞ」

 「請口」は税の請負額のことで、「請口の茶」は税として納める茶という意味。「請主」はそれを負担する茶園経営者。

 宛先の野瀬太郎左衛門尉は近江国草野庄の住人。野瀬村(現在の滋賀県長浜市野瀬町。小谷城跡の東隣り)の有力者で、秀吉から50石の知行を与えられていた。

 秀吉は支配下で良質の茶葉を量産させようと躍起になっていたのだ。実は近江国は比叡山延暦寺の開祖・最澄以来、各地で茶が生産されて来たメッカ。秀吉の野望もまんざら無理筋ではなかった。

 高級茶は高値で売れる。その品質については、利休もアドバイザーとして一丁噛んだことだろう。「利休プロデュース茶」。これってひょっとしたら日本史上初の個人ブランド、冠アイテムになり得たんじゃないだろうか。

 さらに秀吉はこの8日前にも領内の大原観音寺(秀吉がかつて小谷城の浅井長政と対峙していた横山砦のすぐ南隣り)に対し「茶屋を作れ。怠けるなよ」と申し付けている。この場合の茶屋は時代劇に出てくるような庶民の旅の休憩所ではない。

 あくまで領主の秀吉が領内の見回りや関ヶ原経由で美濃と行き来する際の休憩用茶室という形だ。どれだけ彼が茶湯に夢中だったかが、茶葉と茶屋についてのこの2通の書状から良く分かるではないか。

 そして滝川一益。この武将については言うまでもないだろうが、あるエピソードで有名だ。

 この頃から6年が経過した天正10年(1582年)、武田氏討伐の功績で上野1カ国と信濃2郡を与えられ、関東取次という顕職にも就けられたのを喜ぶかと思いきや、「宇治から遠い遠国赴任という地獄に落ちてしまった。恩賞には珠光小茄子茶入を頂戴したいと思っていたのだが、この有り様。もはや茶の湯の冥加は尽き果てた」と知人への書状で愚痴ったのだ。

 これで分かる通り、一益もまた茶湯には非常に熱心な武将だった。


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