2024年11月25日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年8月10日

茶器、使えるんじゃね? と思った信長

 思うのだが、秀吉といい一益といい、その出自は非常にあやふやで怪しい。誇れる家柄ではないことだけが確かだ。恐らく満足に教育を受けたことなど無い。

 そんな人間が今をときめく織田家の重臣に名を連ねる立場になれば、何を欲するだろうか? 簡単ですよね。名誉です、高雅な人物だと言われることです。

 2人にとって、信長が夢中になっている千利休の茶の湯こそは憧れであり、自分もそのトップサークルに属するひとりだと周囲に自慢したい対象だった。

 そんな茶湯LOVEの2人が、丹羽長秀が珠光茶碗を賜ったのを見た直後に蛇石を引き上げる一大ミッションに参加。作業員の数1万人余りで昼夜3日の作業を3シフトと考えれば、賃金はひとり1日米8合計算で7200石、ざっと3億2400万円余りになる。

 これを長秀・秀吉・一益で三等分して1億1000万円ずつとすると、その経費の大きさが尋常ではなかったことが分かる。しかも、この時秀吉は中国方面司令官の辞令を得るべく猛烈な根回しの真っ最中、一益も休む間も無い合戦続きの日々という中での突貫作業だ。

 2人がいかに信長から茶器を賜りたかったか、バレバレなのでした。そりゃそうだ、1億円の珠光茶碗クラスの茶器がいただけるとなれば、ほぼほぼ元は取れた上で見栄まで張れるのだから。(とは言いながら、一益はこのとき茶器を貰うどころか自分の安土屋敷の櫓門を建てるために用意した材木を「わしの櫓に使わせてもらうでや、お前は第一心安い家来だで」と召し上げられてしまうという目に遭うのだが)

 そして、これを見てほくそ笑んだのが信長だった。

 「他愛ないものではねゃーか、茶器を授けるぞと言えば、あの荒くれ者どもが必死になって働くのだで。これを利用しない手は無いがや」

 こうして生まれたのが、後に秀吉が「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」と名付けた信長による茶湯の統制策だったのである。

 信長から名物茶器を与えられた者だけがその茶器を用いて茶会を開くことを許され、その茶会に信長の茶頭を呼ぶこともできる。それ以外の者には許されない。人は好きなことを禁じられると、かえってそのことに固執し一層の情熱を燃やすもの。

 信長は家臣たちの茶湯道楽を制限したが、それがかえって織田家中の茶湯熱を爆発ことになる。最終的には一益が「国よりも茶入」と熱望するほどの効果を発揮することになる。

高額茶器や限定茶会を褒美に

 こうして名物茶器が部下のコントロールに有用であることに気づいた信長は、またまた茶器蒐集にのめり込んでいく。

 天正5年(1577年)3月に今井宗久が「開山(かいさん)の蓋置き」を買い上げ(代金不明)、翌天正6年(1578年)4月に宮尾道三所有の宮尾釜を黄金50枚の代金で買い上げ。これも現代の価値で1億円程度だった。

 この間、天正5年の年末には、茶器拝領を待望して久しかった秀吉に播磨・但馬攻略の褒美として「乙御前の釜」を、また嫡男の信忠に茶入「初花」・茶壺「松花」・「雁の絵」・「竹子花入(青磁)」・釜を吊る鎖・「藤波の釜」・「道三茶碗」・「内赤盆」・「珠徳茶杓」・「瓢箪炭入」・「高麗箸三種」を授けている。

 この内、珠徳茶杓=1000貫文(約1億円)、内赤盆=100貫文(約1000万円)。他も「天下第二」と評される初花茶入をはじめとして、いずれも目の飛び出るような高額の名茶器揃いだったのは言うまでもない。


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