2024年11月25日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年8月10日

 そして年明け天正6年正月には安土城で信忠・秀吉・一益・明智光秀・細川藤孝・荒木村重・丹羽長秀ら12人だけを招待した茶会を開催した。12人だけという特別感に、出席した秀吉や一益は感激に頬を紅くしていただろう。

 「御茶湯御政道」、いよいよ始まったか感高し。それに伴い、茶湯の元締めたる千利休もますます権勢を高めていった。

茶湯の罠

 しかし、信長の凄みは「御茶湯御政道」のマイナス面にもしっかりと留意していた点だった。今回の最後では、御茶湯御政道の罠に落ち込んでしまった男の話を始めることにしよう。その男の名は、佐久間信栄という。

 時間を遡って天正6年10月、信長は毛利水軍との決戦に臨む九鬼嘉隆の鉄甲船団を検閲した際、今井宗久邸と津田宗及邸で茶湯を喫し、そのついでに天王寺屋道叱らの茶室を見学するのだが、信長のお茶チートデイはこの1日だけでは済まなかった。

 翌日、今度は佐久間信栄の屋敷で茶湯を楽しんだのだ。信栄は織田家重臣・佐久間信盛の子で、父とともに大坂本願寺攻めを担当していたから、信長は堺~住吉~交野と経て京に戻る途中、大坂で佐久間邸にも寄ったのだろうか。

 信栄のオモテナシやお点前について信長は「信栄の茶事はことのほか上手だで。驚れゃーたでかんわ!」と感銘を受けたという。信栄も、さぞや高価な名物茶器を披露して、お金をかけた創意工夫もめぐらせて茶席に臨んだのだろう。

 佐久間家の身代については、筆者寡聞にして存じ上げないのだが、信栄の父・信盛は那古野と桶狭間の中間にあたる山崎をはじめとして、尾張東部や三河西部に領地を持っていた。中でも三河刈谷ほかの旧水野信元領は24万石あり、それを吸収していたから、トータルでも結構な広さの領地を持っていたのは間違いない。

 後に彼が率いる本願寺攻め用軍団(近江や大和、河内、紀伊の国衆たちまで指揮下に入れていた)はそっくり明智光秀に引き継がれるが、光秀は丹波と西近江で35万石弱、坂本の商業収入で実質40万石=180億円程度(精米による目減りはこの際無視だ!)の収入だったから、それに近い程度の領地高だったんじゃないかな。

 高級取りだった佐久間信栄がはまった茶湯の落とし穴については、次回にて。

【参考文献】
『信長公記』(角川文庫)
『フロイス「日本史」』(中公文庫)
『豊臣秀吉文書集 一』(名古屋市博物館編、吉川弘文館)
『茶道古典全集』(淡交社)
『武将と茶道』(桑田忠親、一條書房)
『利休の書簡』(桑田忠親、河原書店)
『利休大事典』(淡交社)
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