2022年12月9日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年9月29日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 茶人武将・佐久間信栄のその後について書く前に、前回「茶道を人心掌握に活用した織田信長と荒稼ぎの千利休」で紹介した豊臣秀吉が領内で茶葉生産に熱を上げた件について、ちょっと本筋とは離れるが面白い話を今回の枕にしよう。

大阪市天王寺の月江寺。佐久間信盛・信栄父子が守将となった天王寺砦跡と されている。信栄はここで茶湯三昧の日々を送ったと史料にある(筆者撮影、以下同)

 秀吉による茶園振興が行われたのは、小谷城の東隣りの草野庄野瀬村一帯。そして南に目を転じると、秀吉が茶屋を作れと命じた大原観音寺。お茶と観音寺と聞いてピンと来た方はさすがだ。

 この寺には、有名なエピソードがある。領内見回りの途中で休憩のため寺に寄った秀吉が茶を所望すると、出て来た少年が最初はぬるい茶をなみなみと、おかわりにはやや熱いお茶を普通の量、さらにおかわりと言われてとびきり熱いお茶を少量持って来た、という「三献の茶」の話だ。この気配りの見事さに感心した秀吉は少年を召し出すのだが、彼こそ寺で学問修行していた石田三成だった。

 のちに三成は豊臣家の官僚団トップとして秀吉のプライベート・アドバイザー、千利休と反目する存在になるのだが、ふたりの関係がこの頃から「茶」を通じて始まったと考えると、運命とは異なものとため息が出るではないか。

茶湯道楽は武道を廃れさせる

 さて、本題。織田信長の重臣で、40万石を知行したと推定できる佐久間信盛とその子で茶湯の才能を信長にもアピールしまくった信栄。

 佐久間家の身代が40万石と仮定すると、その内自由になる額は、家臣に分け与える土地を除いた直轄地から得られる収入を1割=4万石=18億円と仮定(豊臣秀吉の直轄地が全国のおよそ10%になることから推算)して、年貢として収納できるのが半分、さらにそこから俸禄取りの家来たちに支給する蔵米が半分とすると4.5億円と導かれる。4.5億円もあれば、諸経費差し引いても普通は大金が手元に残るだろう。

 でもねぇ。どうも佐久間家父子の場合はそうはいかなかったようだ。

 信長が九鬼の鉄甲船を検閲した後で信栄の茶湯接待を受け、「あやつの茶湯数寄の腕はことのほか達者だわ」と感心した話は以前に出したが、このエピソードには続きがある。信長は「とはいうものの、武士たる者は羨ましがってはいかんて」と言葉を継いだのだ(『当代記』)。

 信長の右筆であり奉行でもある武井夕庵という腕利き官僚がこれを受けて「武士たる者、むやみやたらに茶湯にハマれば、武道が廃(すた)れまする。結局、茶湯は町人や職人の技芸に過ぎませぬので」と語った。

 茶器蒐集、茶会の工夫や準備は時間と金を溶かすもの。それに夢中になって自制心を忘れれば、武士の本業である合戦にも支障が出るのは当然というもの。

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