茶湯ヲタの信栄としてはそんなことは到底我慢できなかっただろう。天正4年(1576年)の茶器拝領から信栄が参加した茶会は、自会・他会合わせて47回もある。その都度土産の贈呈があったとすれば、信栄の累計持ち出しがどれほど巨額になっていたか、考えるだけで恐ろしい。
「茶湯で体裁を保つのは大変だで」
信栄はそんな自虐を茶碗に向かって吐いたことだろう。彼の交際術は、一にも二にもマネーに支えられていた。
信栄追放!
そして、運命の天正8年(1580年)がやって来る。この年8月2日、大坂本願寺の牙城・石山が明け渡され、11年に及んだ石山合戦がようやく終了したのだ。織田信興(信長の弟)、原田直政、前波吉継、真鍋貞友以下、無数の将兵の命を奪った長い戦いの終結に、織田軍の上下は喜びに沸いた。
だがその10日後、激震が走る。信長が信盛・信栄父子を追放したのだ。
彼は追放を命じる折檻状にこう記している。
「5年も対本願寺戦の司令官を務めながら、手柄どころか失敗もしないほど何も働かなかった。強攻はおろか謀略すらせず、ただ砦に籠もっていただけだ。何も信長に相談せず、部下からの提案にも耳を貸さなかった」
筆を進めるごとに信長の怒りは加速度的に増していく。
「水野信元の旧領を与えたのに、その旧臣を追い出して召し抱えず、直轄地にして金銭を貯め込んだ。言語道断!」
水野信元が領していた三河刈谷・尾張緒川などは前回も書いたように約24万石。直轄地比率を10%→30%に上げたとすれば、4.8万石分が浮く計算。実収入ベースなら2万石あまりだ。現代換算9億円。先に計算したように通常なら家来を雇って4.5億円は人件費に消えるが、佐久間家の場合、その多くは、信栄の茶湯三昧に消えていったと思われる。
「信栄は欲深で、与力(家臣ではなく指揮下にある同僚)ばかりで軍役を務め、自分の家来は召し抱えなかった」
この後も信長の叱責は続き、最後に「父子ともども頭を剃り、高野山に隠遁してまえ!」で締めた。『甫庵信長記』ではさらにこんなことも信長は述べている。
「信栄は茶湯に打ち込んだ100分の1も武道に心掛けたなら、父・信盛ももう少しは働けたろうに、無益な数寄道楽に莫大な金銀を浪費して戦功をあげた者にも褒美をやらず、朝夕茶室の前の路地の塵を拾い、茶室ではああでもないこうでもないと茶湯を評し、各地の名水の優劣を論じ、茶人のランク付けで暇を過ごして家来の忠不忠のランク付けはとんと忘却したままで、明けても暮れても床に飾る掛け軸の絵や讃・茶の色や味などにうつつを抜かして月日を空しく浪費したではねゃーか!」
これが史実かは分からないが、今までの流れを見る限り信長がこう怒ったとしてもある意味仕方が無い。何しろ11年間の本願寺・一向一揆との死闘の間、信栄はそれをよそに47回もの茶会を催したり参加したりしていたわけで、『高野春秋』という史料には「塁中(天王寺砦の中)で茶遊を好み武功無し」とあるぐらいだから、たいがい皆も呆れてもいたのだろう。茶湯に投入した時間と大金を本願寺との戦いのために使っていれば展開も変わっていたかも知れないのだから。