佐久間父子の手元には小判2両のみ
結局、信栄は父・信盛ともども即座に天王寺から高野山へ向かったが、供はわずかに2、3人に過ぎず、さらに1人のみに減ったということだ。ふたりは金子10枚(=小判100枚、約2000万円)だけを携えて高野山に入ったのだが、小坂坊という宿坊の寺に「自分たちの死後は灯明を欠かさず、供養の石塔も建てて欲しい」とその内の9枚と小判8両を預けたという。手元には小判2両(40万円)しか残らなかったわけで、ほんのつい最近までの栄華を思えば寂寥の思いを禁じ得ない。
11月11日、千利休の高弟・山上宗二が催した茶会では、炉に大釜が据えられた。客の津田宗及はこれを「佐甚九(佐久間甚九郎信栄)ヨリ還候釜也」と記録している。かつて信栄が宗二から買い上げたか、贈られた大釜が戻って来たという意味だ。
信栄を熱狂させた茶湯をリードする堺衆の信栄に対する餞(はなむけ)の言葉は、この9文字だけである。嗚呼、無常。マネーの使い方を間違えた結果の、悲劇だった。
以下余談。山上宗二は信長から追放された信栄ゆかりの大釜をあえて茶会の主役に据えるあたり、大した胆力だと思う。のちに彼が豊臣秀吉にへつらわずに最後には耳と鼻を削がれて首を打たれるという反骨の茶人らしいエピソードだ。
御茶湯御政道には武功も必要
こうして茶人武将・佐久間信栄は表舞台から姿を消した。のち、父の信盛が蟄居(ちっきょ)先で亡くなると、信長はさすがに可哀想になったのか、信栄を呼び戻して赦免し嫡男の信忠付きにしているが、もはや時代は彼を過去のものにしている。
ところが、彼を置き去りにして「御茶湯御政道」はどんどん熱気を増していった。
なにしろ、信栄の追放によって「信長様公認の茶湯数寄は、家柄や収入だけでゲットできるものではない。何よりも武功が無ければ」と皆が認識したのだ。言わばスーパーマンにのみ許された趣味。なにしろ、信長が信盛・信栄に突きつけた折檻状にも武功の有った者として挙げられ激賞されている明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家はいずれも茶器を拝領した上、それぞれ誰も文句を付けられない手柄をたてていた武将なのだから。
信長の茶湯はこの上無い名誉の趣味として、いよいよ憧れの対象となっていくのである。