2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年9月29日

 もっとも武井夕庵自身も茶人として活動していた男だから、この茶湯ディスはやや怪しいのだが、信長は信栄の大ハマリぶりを見てやや不安になったのは間違いないだろう。

 それはそうだ、信栄が夢中になっている茶湯は金食い虫。信栄が天正4年(1576年、丹羽長秀が珠光茶碗を拝領したのと同じ年)に信長から拝領した大壷「箸鷹(はしたか)」と掛軸「濡雀」の価格は分明でないが、秀吉や長秀とそれほど格差を付けたとは思えないから1億円ずつぐらいはしたと考えても大きく外してはいないだろう。

 ひとつ1億円の名物道具。それをゲットすれば茶湯道楽はコンプリート、という訳にはいかない。一流茶人の道は遙かに険しいのだ。もっともっと良い茶器を集めなければ!

 ……ここで沼というヤツにハマってしまえば、信長が懸念していることもお構いなく、もはや歯止めは効かなかった。

インフレ続けた茶湯の贈答合戦

 天正6年(1578年)1月4日、信栄は初めて堺におもむいて天王寺屋宗及の屋敷で茶会に臨む。客は信栄ただ1人だ。

堺旧市街の中心を東西に走る大小路と南北を貫く紀州街道の交差点東側。このあたりが津田宗及屋敷跡と推定される。佐久間信栄が初めて堺を訪れ茶会に参加したのはここか

 この日の信栄は土産として綿10把・銭300疋(=3貫文)を宗及に贈っている。3貫文は30万円弱として、問題は綿だ。10把は0.1反程度の綿畑の収穫量で、現代なら10キロあまりの綿が採れる計算だ。シングルサイズの布団なら2枚分近い。

 今は布団というと羽毛布団が主流になり、重い綿の布団はそれほどでもないが、江戸時代初期には綿布団(当時は綿を入れた着物の体裁)1枚の値段が現代の価値で60万円もしたという。綿花の栽培がまだ発展途上だった戦国時代は数倍したっておかしくない。

 念のためちょっと計算してみよう。40年ほど遡った天文期(信長が生まれた頃)の木綿は1反の単価が銀で6、7分。木綿1反分の原料となる綿は700グラムあまりだから、10把=10キロの綿は14.3反弱、銀にして100分(10匁)に相当する。

 当時の銀相場から換算すれば、300万円にのぼる計算だ。やはり予想通り戦国時代の綿は非常な高級品。ということは、だ。信栄は330万円分をポンと宗及への手土産にしたことになる。

 この後、信長の信栄茶湯評のエピソードを経て天正7年(1579年)10月28日に信栄は茶会を催す。この茶会には信長の側近・堺代官で茶湯にも精通していた松井夕閑も出席したが、この夕閑が当日手土産として持参したのは、なんと黄金5枚と灰かつぎ天目茶碗。黄金5枚=1000万円程度もさることながら、灰かつぎ天目の方は夕閑愛用の茶碗で、早速その場で床の間に飾られたというからその日の目玉となる茶器だった筈。おそらくは黄金5枚を上回る価値のある釜だっただろう。

 1年で信栄が関与する茶会の贈答の金額、めちゃくちゃ暴騰しているではないか!これは今井宗久や千利休らによる茶湯の隆盛や信長が始めた「御茶湯御政道」、そして信盛・信栄父子が対本願寺戦の司令官として織田軍団中最大の兵力を抱える〝トップガン〟だったことも影響しているだろうが、格上の者が高いプレゼントを貰ったら、それを上回るプレゼントを返さなければ「ケチ」と陰口を叩かれ、「茶湯の粋には不似合いな野暮天」と茶人としての評価まで台無しにされかねない。


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