2024年4月26日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年11月1日

 「これだけ繁華でマネーがじゃぶじゃぶと唸り、大坂本願寺の喉元に匕首を突きつけたようなロケーションにある天王寺砦に4年の間駐屯していたんで、まぁちょっと結果を出してもらえんと、他の部下の手前、しめしがつかんでいかんわ」

 佐久間氏は織田家の譜代重臣。羽柴秀吉や明智光秀、滝川一益らとは違って、危機感やハングリー精神には欠ける。そんなこともあって、信長はコストパフォーマンスに劣る信盛・信栄のリストラを決めた。その分のリソースを有能な他の家臣に振り替えれば、天下統一の事業も一段と効率良く進むというもの。

 もっとも、佐久間父子の軍団を引き継いだ光秀は2年後に本能寺の変を起こして圧倒的な兵力で信長父子を攻め殺してしまうことになるのだけどね。マネーの合理性だけを追求すると、こういう落とし穴もあるわけだ。

 既述の通り、佐久間父子は高野山に追放されたが、一説によると信盛は播磨国益井の山奥の五加木(うこぎ)が谷という土地に隠棲したことがあると伝わる(『大和志』)。

 「うこぎ」という地名からして植物のウコギが繁茂する土地だったのだろうが、ウコギは根・幹から生薬が取れるほか、新芽・葉が食材になり、また葉・茎を干して煎じれば茶の代用にもなる。かつて息子の信栄とともに天王寺砦で茶を楽しんだ信盛が、茶の下位互換品の土地に引き籠もったというのも、歴史の皮肉と言うべきだろう。

茶人・秀吉の台頭

 佐久間父子の退場とともに宿老の林秀貞らも織田家から追放され、織田家臣団は完全実力至上主義へと旧態を一新した。その主役は、もちろん実力だけでのしあがった羽柴秀吉だ。

羽柴秀吉が攻めた播磨三木城天守跡

 佐久間父子が追放される半年前、信長は四十石の茶を秀吉に下賜する。秀吉はそれを早速自分が初めて手ずから挽き、それを喫するための茶会を開いた。

 といっても、これは40石分の茶という意味ではない。それはそうで、100俵のお茶っ葉を挽くなんて苛酷な作業を、超多忙な秀吉さんがやる訳もないのである。

 これは、「四十石」という、当時No.3の名物茶釜の事で、その名は40石の収入がある田と交換したという謂われからだが、応仁の乱の頃に普通の茶壺が10万~20万円程度の価格だった時に40石=180万円程度もしたという。これがさらに戦国時代の茶器バブルの中では数千万円に値上がりしていただろう。 

 思えば天正4、5年と、秀吉は信長から「月の絵」(牧谿筆)・「乙御前の釜」を拝領したが、「四十石」は足かけ2年に及んだ三木城攻めがようやく決着したことに対する褒美だった。三木城攻めに要した秀吉の手勢が1万人、これが1日6合の米を消費すると2年で4.38万石。換算すると20億円近いマネーが飛んでいった計算。これに対して数千万円の壷では割に合わない気もするが、急いては事をし損ずる、果報は寝て待て、だ。秀吉は「信長様のお茶」を味わいながら次の仕事の段取りを考えていた。


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