2024年11月25日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年11月1日

実は重要な拠点だった天王寺砦

 実際、佐久間信盛・信栄父子はよく頑張ったのかも、とも思う。天王寺砦というのは、「砦」という呼び方から卑小化されて捉えられがちだが、「天王寺城」とも呼ばれるその実態は、かなり凄い一大拠点だったと考えられるのだ。

 既述の通りその跡地は月江寺あたりとされているのだが、一方で四天王寺の西隣りがほぼほぼ天王寺城だったとも言われている。正直言って筆者もこちらの方が本当だろうと考える一人だ。

 前者なら収容人数は1000~2000人がせいぜいといった所なのだが、それだと天正4年(1576年)に信長が3000人の兵とともに一揆勢が包囲する砦に突入した際、明智光秀ら守備兵2500人程度と合流したらパンクして身動きもできなくなってしまうことになる。

 それが後者であれば一気に解決だ。大坂冬の陣のとき、幕府軍を大いに苦しめた大坂城真田丸の収容人員は5000人程度。それと同じぐらいの広さを持つ天王寺砦なら5500人がまるっと入れる。

 その後信盛・信栄はこの天王寺砦の強化改修に取りかかった。そして翌年に松永久秀が離反して砦から引き揚げてしまうと、ほぼ砦の兵は佐久間勢(与力と家来)で占められることになる。天正5年から8年まで、5500人の兵(時期によって増減はあったかも知れないが)を養うには1日6合の米を支給するとして1.2万石余りが必要な計算で、現代の価値なら5.5億円が吹っ飛んだわけだ。

 年間1億円以上の経費が掛かった上に、砦の改修費・メンテナンス費も掛かるし籠城用の備蓄米も別途必要。さらに、大坂本願寺包囲陣を形成する他の砦にも兵糧や弾薬を補給する「ハブ」の機能も果たしていたと思われるから、年間に動く金額は数億円レベルになる。佐久間父子の年収9億円は茶湯だけでなくこの経費にもある程度投入されていたと考えるべきだろう。

経済活動も盛んで税収も多かった天王寺

 こうしてちょこちょこと大坂本願寺に手を出しながら金食い虫の天王寺砦を維持していた佐久間父子。

 とはいうものの、天王寺砦は金食い虫ではあっても決して無駄飯食いではなかった。何しろ、天王寺はその名の通り四天王寺の門前町。各地から参詣客が集まり、金を落としていく。周辺からは農産物や海の幸・山の幸が運ばれて来て市場も立つ。越後の青苧も天王寺の座で扱われ、上質な麻が売りさばかれた。

 その賑わいの中で発展した町は、15世紀末で7000軒の戸数・人口3万5000人に上ったという。ほぼ同時期の堺が6000軒・3万人程度と考えられるのと比べても、それを上回る大都市だったのだ。

 仮に7000軒から棟別銭(家屋税)を1戸あたり100文取ったと仮定すると(戦国時代の棟別銭は大名によって数十文~数百文)、徴収額は700貫文(現代の価値に換算して5億円程度)。堺のそれが日明貿易最盛期で730貫文というから、ほぼ横並びだ。天王寺がいかに栄えた町だったかがよく分かる。

 その上、天王寺は東の平野、南の堺にも街道で結ばれていて、天王寺さえ押さえれば大坂本願寺への通行を完全に遮断できる。包囲戦の扇の要、力点としてはこれ以上の土地は無い。この場所を選んだ信長の眼力は、さすがというしかない。


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