2024年4月19日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年11月1日

秀吉と利休のタッグ強化

 それが明くる天正9年(1581年)、秀吉は堺の今井宗久屋敷に長逗留(ながとうりゅう)した後でおそらく本拠の近江長浜城に帰着してすぐそこ礼状を書き送るのだが、そこには「詳しくは宗易(千利休)から聞いてくれ」とある。

 おお、ようやく千利休に話が戻った。

 利休は堺から秀吉に同行し、秀吉が姫路に向かうタイミングで別れて堺に戻り、秀吉の意向を今井宗久に伝えたと考えられるのだが、津田宗及と親しかった佐久間父子の没落後、利休がいよいよ秀吉に最も近い存在となって堺衆に幅を利かせていた様子が見てとれる。無論、利休は茶湯だけでなく秀吉の中国地方攻略についての軍資金、兵糧、武器弾薬の御用を請け負う死の商人としてもご相談に与っていたことは確実だ。

 もはや秀吉と利休は一体化した軍産(商)複合体と言えるニコイチコンビとなっていた。

 同じく天正9年の12月23日、秀吉は安土城へ年末挨拶に参上するのだが、そのときの手土産がもの凄い。

 小袖200着に銀子3000両などが台に乗せられて延々と運び込まれ(『甫庵信長記』ほか)、信長はわざわざ天主に登ってその行列を見物したという(『享禄以来年代記』)。

 このお歳暮品、いったいいくらぐらいしたのだろう?

 小袖はピンキリだが、当時最高級の木綿製なら原料だけで前回の記事から1反あたり銀で6、7分、トータルで金350両約7000万円に相当する。これにお仕立代やマージンが乗るから、1億円弱といったところか。そして銀子3000両。こちらは金215両約4300万円。絹の小袖なら更に値がかさむだろう。

 というわけで、他の品々も合わせれば2億円近い額だったことになる。これらのお歳暮品の調達には当然利休が奔走したのだろう。

 これに対して、主君の信長も太っ腹なところを見せなければメンツが立たない。

 2カ月前の鳥取城攻略の褒美ということで秘蔵の名物茶器8点「雀の絵」、花入「砧」、「朝倉肩衝」、「大覚寺天目」、台「尼崎」、茶杓「珠徳竹」、火箸「てつはね」、高麗茶碗を下賜し、「御茶の湯を仕れ」と茶会開催を公式に許した。秀吉はその日の内に今井宗久・宗薫父子に「身に余るかたじけない次第」と感激の思いを書き送っており、後々も「安土に伺候したとき信長様の御座所へ召し上げていただき、首(額)を撫でて『侍ほどの者々は筑前にあやかりたいと思え』と仰っていただいた。その上に但馬の金山、御茶湯の道具以下も下され、『御茶之湯仕るべし』とお言葉を賜ったこと、誰がこんなお許しをいただけるというのかと思えば、昼夜涙を浮かべ」たほど感激したと綴ることになる。

【参考文献】
『信長公記』(角川文庫)
『上方文庫 龍谷大学図書館蔵 石山退去録』(関西大学中世文学研究会編、和泉書院)
『堺: 商人の進出と都市の自由 日本歴史新書』(豊田武、至文堂)
『日本歴史地名大系 大阪府の地名』(平凡社)
『天王寺区史』(川端直正、天王寺区創立三十周年記念事業委員会)
茶道古典全集 第七巻』『同八巻』(淡交社)
ほか

   
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