2024年4月26日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年1月15日

権力争いに敗れる利休、死の道へ

 天正15年(1587年)1月3日、堺に滞在中だった博多の豪商・神谷宗湛が大坂城へ呼び寄せられ、秀吉による大茶湯の会が催された。

 食事には大名衆とともに宗湛と利休のみ参加。石田三成が翌日宗湛を自邸に招いて茶を喫むと、12日利休も自邸で宗湛に茶を点てている。しかも、大和郡山に居た宗湛を急きょ呼び寄せての事だった。どうですか、三成と利休が宗湛を取り合ってその腕を両方から引っ張り合っている感じがしませんか?

 実際、三成はこの直後に実施される本格的な九州攻めに不可欠な博多衆の協力を得るため、また利休は海外貿易の便宜を図ってもらうため、それぞれ宗湛にとって無二の存在となるべく、動いたのだ。

 実は、この宗湛を招いての茶会(正しくは茶事の後の雑談)で利休は決定的な発言をしている。それは次のようなものだった。

 「赤は雑なる心なり、黒は古き心なり」

 赤い茶器は雑念を生じさせる。黒い茶器は伝統的な茶湯の心を表す。先述したようにかつて端の反った赤楽茶碗を好んだ利休は、一周回ってオーソドックスで重厚な黒茶碗を愛するようになっていた。原点回帰である。

 果たしてそれは、秀吉の「分かりやすい」ニュー名器路線への反発とは無関係だっただろうか。

 そして実際に秀吉が九州へ出陣した3月、三成も供奉して西下し、4月になると博多復興(博多は戦乱の中で焼き討ちに遭い、衰えていた)を指揮し、博多衆との関係性を確立。利休は三成との競争に敗れてしまった。

利休切腹の原因になったとも伝わる大徳寺山門(金毛閣)

 天正18年(1590年)、伊達政宗が箱根で利休に師事。秀吉による北条征伐に随伴した利休は、政宗から束修(弟子入りの礼)として太刀一振と金10両を贈られ、「これは多すぎます」と恐縮している。

 高額だろう太刀と10両=200万円。確かに多すぎるかも知れないが、結果として受け取っているのだから他の大名貴族も弟子入りの際にはそれに近い額を納めていたのだろう。いやいや、現代でも趣味を究めようとすればそれぐらいの出費は当たり前か。

 そして翌天正19年(1591年)、結局、次の年に利休は秀吉から切腹を命じられる。『多聞院日記』によればその罪状は「近年目新しい茶器を高値で売っている振る舞いは売僧の頂上だ」というものだった。

 その秀吉みずからが、3年後の文禄3年(1594年)には呂宋助左衛門がルソン(フィリピン)から持ち帰ったという目新しい茶釜を大名たちに斡旋し、助左衛門に巨富を築かせたというのだから、利休の罪が茶器の高額販売という括りのマネーには無かったことだけは間違いない。

【参考文献】
『新異国叢書 イエズス会日本年報』(雄松堂出版)
『茶道古典全集』(淡交社)
『千利休』(村井康彦、講談社学術文庫)
『利休の年譜』(千原弘臣、淡交社)
『利休の書簡』(桑田忠親、河原書店)
ほか

   
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