「新たな良きモノ」黄金の茶室
利休が島井宗室に懇篤な手紙をしたためてから3カ月後、秀吉は大坂城で「御道具揃え」の会を開催した。利休、松井夕閑、荒木村重、津田宗及らを召して自分の茶器コレクションとともに彼らにも秘蔵の品を持ち寄らせた展覧会だ。その2カ月後、今度は京で展覧会を行っている。
しかし、これらのイベントは、おそらく盛り上がらなかっただろう。何しろ、前年の本能寺の変で名物中の名物「曜変天目」「九十九茄子」「珠光小茄子」「円座肩衝」「勢高肩衝」「万歳大海」が火の中で失われてしまっているのだから。小堀遠州が後に「曜変天目に並ぶ物は、今は指折り数えるほども無い」(『名物目利聞書』)と嘆いたように、目玉の無い展覧会ほど虚しいものは無いのである。(そういえば半世紀前の大阪万博は月の石をはじめとして目玉でいっぱいだったけど、今度の関西大阪万博はどうなんでしょうね)
秀吉もそれを思い知ったのか、このあと彼の茶湯趣味は「古き良きモノ」から「新たな良きモノ」をドドンと打ち出して行くことになる。
その輝かしい画期が、天正14年(1586年)1月15日。この日、お内裏の小御所で秀吉が正親町天皇以下に茶を点てたのだが、その目玉こそが有名な「黄金の茶室」だった。
「ことごとく黄金の御座敷なのは言うまでもなく、畳は猩々緋、その縁(へり)は黒地の金襴。前代未聞の見事さは表現できない」と公家の吉田兼見は仰天ぶりを日記に書いた。三畳の組み立て式茶室の柱・天井・壁や鴨居はすべて金箔で覆われ、障子の骨と板も金箔、障子紙は赤の紗。金具も黄金なら茶道具も茶杓と茶筅以外は黄金製というキンキラぶりだったそうだ。利休がこの黄金の茶室の企画に一枚噛んだという話もあるが、実際はどうだったろうか。
それではこの黄金の茶室、いったいいくらぐらいのマネーがかかったのだろう。それについては、外国人の証言が手がかりになりそうだ。
「この仕事をなした金細工師は堺の貧しい人であったが、関白殿は彼がその職を止めていかなる貴族とも同じ生活をすることができる程の収入を与えた」(フロイス書状)
つまり、当時の公家の収入が分かれば黄金の茶室の値段も弾き出せるという訳。そこで、関白という公家最高の職を務めた近衛前久の収入を俎上にあげよう。
代々の荘園などの収入源を戦国の混乱の中でほぼ失い困窮にあえいでいた前久は、天正3年(1575年)11月に織田信長から新しい知行として約300石を与えられている。続けて3年後にも別途1500石を得ているから、都合1800石。これは現代の価値にして8100万円ほどになる。
つまり黄金の茶室製作に携わった金細工師は8000万円の手間賃を得た、という結論だ。この組み立て式茶室は他に大工や建具師も加わっただろうから、そちらにも8000万円ずつ与えるとして都合2億4000万円。これが黄金の茶室の値段、としておこう。
それまでの名物茶器がひとつ1億円以上していたものに代わる、まさに「新たな名物」の登場だった。しかも、少し前から利休が執心だった「ハタノソリタル(端の反りたる)茶碗」=縁が反った赤楽焼きの新作茶碗よりも、誰の目にもハッキリクッキリドッキリと斬新さ・次の時代の到来を分かる形で。