2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年1月15日

秀吉党のフィクサー

 とにもかくにも、堺の豪商たちは中国貿易・南蛮貿易の主導権を握るべく、大徳寺の信長葬儀を通じて秀吉の天下取りをバックアップ(リード?)した。利休が嶋井宗室へ「何でも相談に乗ります」とフレンドリーに持ちかけたのも、国際貿易港・博多との連携を意識した政略でもあった。

 だが、それが10年後に予想外の結果を呼ぶことになるとは、お釈迦様でもご存じあるめぇ、なのである。

堺・南宗寺の千利休一族供養塔

 その件は後で詳述するとしよう。ここは利休たちがマネーパワーを全開にして秀吉を天下人に押し上げようとする件がテーマだ。

 秀吉の天下を実現するには何が必要か。それは、秀吉の支持層を広げること。多数派工作というやつだ。

 年次不詳の利休書状に、こういうものがある。

 「そちら様はお忙しいのに細かいことを申し上げるのもどんなものかと連絡が遅れましたが、法印の釣り物(茶釜を吊す鉄鎖)を描(か)き写させたので、出羽守殿によろしくお取り次ぎ下さい」

 出羽守は信長の重臣のひとり、蜂屋出羽守頼隆である可能性が高い。その頼隆に名物茶器のひとつと思われる「法印の釣り物」の写図を贈ろうと言うのだから、頼隆も例に漏れず茶湯の数寄に凝っていたのだろう。何かの姿形を知らせるためには現代なら写メすれば済む話だが、当時としてはスケッチをして渡すしかない。

 問題はこの書状の時期で、入れられている利休の署名と判子の組み合わせから天正10年(1582年)以降なのだが、頼隆が出羽守を名乗ったのは天正11年だし、天正10年3月甲斐武田攻め、天正11年3月伊勢・峯城攻めに従事していて「お忙しい」状況が続いており、とても利休のスケッチを受け取って悠長に眺めている暇などは無い。

 彼は天正13年になると「敦賀侍従」を名乗るので、おそらく利休の書状は天正12年(1583)に書かれたの推定できる。

 という事は、小牧長久手の戦いの直前というタイミングになる。利休は秀吉の意を受けて、頼隆を秀吉方に引き付けておくべく茶器の絵にこと寄せて親近さをアピールしたのだろう。

 なにしろ頼隆は越前敦賀という良港の地を領してはいたものの、それまでの和泉国14万石から5万石に減転封されており、秀吉に対する不満がなかったとは言えない。そんな頼隆が越中の佐々成政と組んで秀吉に逆らうような事があっては大変なのだ。

 ただ、この頃すでに利休の悲劇は始まっていたらしい。この年宣教師・フロイスは「秀吉は小西ジョウチン隆佐に財宝一切(の出納管理)を任せた」と記録している。隆佐は行長の父であり、秀吉の金庫番となったことで深く豊臣政権に関わっていく。そしてその子・行長は秀吉に取り立てられ石田三成の盟友として文吏派に与する大物となって利休排斥の動きに影響を及ぼしていくのだ。


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