前回「豊臣秀吉と千利休はどう権力の階段を上ってきたのか」で羽柴秀吉が織田信長から拝領した茶器の品々、「雀の絵」はりん、花入「砧」、朝倉肩衝、大覚寺天目、台「尼崎」、茶杓「珠徳竹」、火箸「てつはね」、高麗茶碗。『信長公記』によればこの他にさらに4つの茶器が下賜されたようだ。
判る限りで言えば、台「尼崎」が上下合わせて100貫約1000万円、茶杓「珠徳竹」が信長の手元に残った「浅茅」と同レベルの物ならば1000貫約1億円。秀吉が「いずれも御名物」と声を弾ませて喜んでいるように他もすべて上々のお品ばかりなのだから、総額は2億円以上に及んだだろう。
秀吉から信長へ献上されたお歳暮が2億円近くと既述したが、それを上回る額というのは、主君としての信長の面目を考えても極めて妥当なところだ。
しかし、秀吉からの歳暮は「鳥取城攻略記念」なのだから、やや上回る価値の茶器だけでは褒美としては物足りない。ましてや、これからも続く毛利家との戦いに備えて秀吉の目の前にぶら下げるニンジンには弱いのである。
と思ったら、さすが信長さん。さらにそれを上回るボーナスを用意していた。1年近く後に秀吉が「丹州金山、御茶の湯の道具以下まで揃え下され」と回想していることで判るように、それが但馬の金山だ。
但馬の鉱山については生野銀山が特に有名で、この連載でも触れて来た。だが、今回は金山。但馬の金山というと中瀬(なかぜ)金山がある。
金鉱脈をゲットし、茶会へ
秀吉による但馬平定は前年の天正8年(1580年)3月の第二次征伐で一応達成されるのだが、その後も既得権者の抵抗は一揆という形で続いた。それも、中瀬金山のすぐ隣、小代(おじろ)という土地で。
これを撫で斬りにし、捕虜も磔にかけ山谷を探し回って生き残りを始末するという凄惨なやり方で殲滅したのがこの年の7月ごろ。
秀吉がどれほど中瀬金山を重要視し、なにがなんでも手に入れようと考えていたか、この強引な攻め方にハッキリ現れている。
それほどに秀吉が執着した中瀬金山。信長は年末になって茶器の下賜とともに秀吉にその支配権を事後承認した。以降、秀吉は米納の年貢を減免するなど中瀬金山を優遇して人を集め、金鉱脈の採掘を強化していく。
慶長3年(1598年)になるとその産金額は金子127枚。すなわち小判1270枚、2億5000万円以上を数えるまでに発展していく。これは当時の各地金山でもかなり上位の額だ。
その上、秀吉は信長から織田家の茶頭たち=利休、今井宗久、津田宗及らを自分の催す茶会で召し使うことも許されたのだから、その得意絶頂ぶりは想像に難くない。
2億円のお歳暮経費で名物茶器2億円と黄金マネー期待値2億円/年と信長肝煎りの茶人たちとの「お茶会権」をゲットした秀吉は、さっそく4日後に茶会を開いた。茶事進行は津田宗及、客は利休の高弟・山上宗二。宗及は「堺から上洛する途中で秀吉さまに遭遇し、そのまま信長様よりご拝領の茶器で茶会しようと仰るので、そのまま連れて行かれた」と記録している。秀吉の鼻息の荒さたるや、秒速100メートル級であった。