2024年12月4日(水)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年12月11日

発生!本能寺の変

 ところが、この申し合わせは日の目を見ずに終わる。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変発生。織田信長は不慮の死を遂げ、話はご破算になってしまったのだ。

 徳川家康接待のため堺に下っていた利休は、冷静な目で情勢を観望した。羽柴秀吉が備中高松城から「中国大返し」で6月11日夕刻頃に尼崎に到着すると出迎えに赴くと、茨木から来ていた中川清秀にも面会した。利権同盟の仲間として、清秀に資金と弾薬のバックアップを約束して励ましたのだろう。

 この発破が効いたか、明智光秀との「山崎の戦い」では先鋒2番手となり、勝利に大きく貢献。秀吉は信長の天下取りの後継者としての第一歩を踏み出すことに成功した。

 しかし、天下取りの後継者といってもまだ織田家には信長の子たちや重臣筆頭の柴田勝家以下秀吉の同僚たちも多く残っている。秀吉は清洲会議を経て信長の次男・信雄と三男・信孝の主導権争いをあおり立て、その後ふたりの仲がさらに悪化していくよう仕向け、いつまでたっても信長の葬儀が催されないのを見て取ると「信長様の事をお忘れになるようでは、世は暗闇になってしまう」と丹羽長秀にも書き送って世論を誘導し、「それではそれがしが」と、わざとらしく腰をあげた。

 京に出て三条に住む伊藤という男の屋敷に滞在し、大徳寺で葬儀の打ち合わせをしたのだが、この伊藤さん、秀盛という名の人物と思われ、秀吉の直轄領の代官を務めていた羽柴家の財務奉行だった。ということは、秀吉と大徳寺、そしてマネーの出納を担当する秀盛の三者間で信長葬儀に要する費用の相談が行われたということになる。

 その後、ちょっと面白いトラブルが起こった。朝廷から信長へ従一位太政大臣の位官を追贈するにあたり、大内記・五条為良が大徳寺への使いに立候補したのだが、寺の取り次ぎ役をつとめる勧修寺晴豊が先例を理由にクレームをつけて少納言・舟橋国賢に変更させている。官位がひとつ上の少納言でなければ、と主張する晴豊は、為良が2度も抗議しても取り上げず結局自分の意見を押し通した。

 実はこの使いには砂金10両が支給されることになっており、為良は200万円相当のお手当に惹かれて粘ったのだろう。信長の葬儀を前に、公家の間でもささやかなマネーバトルが繰り広げられていたということで、ここで紹介させていただいた。

大徳寺の葬儀

大徳寺総見院・織田信長墓

 こうして10月15日、信長の葬儀は大徳寺北西の蓮台野で盛大に挙行された。秀吉の弟・秀長が1万の兵を率いて葬列3000人の道中を固め、五山をはじめ諸寺の僧侶無数も3000人以上参加。見物人は京中から集まり、金銀で飾り立てられ金沙金襴で包まれた信長の棺の前は池田輝政(信長の乳兄弟・恒興の子)、後は羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子)が担ぎ、秀吉は太刀を捧げ持って後ろに続く。棺は火葬とされたが、信長の遺体は残っていなかったため香木で造られた像が収められていたことから、一帯に良い香りが漂ったという。

 さて、この連載で肝心なのはこの葬儀に投入されたマネーについてだ。大徳寺に秀吉が与えた目録には1万貫とあり他の史料には銀子2000枚とある。前者なら9億円、後者なら4億5000万円と誤差が大きいが、他に総見院建立用として銀子1025枚(2億3000万円)や毎日の施行(費用)として米2040石(9200万円)、楽人(がくにん。朝廷の楽士)の演奏代として米50石(225万円。室町将軍足利義輝のときの1.6倍以上)が支払われ、さらに秀長が率いる1万の兵にも17日分の経費がかかった訳で、これを米6合×1万人×17日とすれば4600万円。豪華な棺代や香木の信長像代も含めればオーバー9億円となり、やはり銭1万貫分の費用が掛かったのだろう。


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