2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年12月11日

利休マネーのキーマン・中川清秀

 そして、その「連れて行かれた」先がまたイカしている。京への通路にあたる茨木城だ。

 茨木城の主は、中川清秀。荒木村重の家臣だったが、村重が織田家から離反した際に寝返って信長に従って黄金30枚(約6000万円)を貰った人物だ。秀吉は自分の担当地区である中国地方と京の連絡通路を確保するためにこの清秀をずいぶん重要視したらしい。

 なにしろ前の年には兄弟の誓いを交わしたうえに「河内の国は言うに及ばず、摂津国欠郡(かけのこおり)もあなたに下されるよう、私から信長様に申し上げますで」とまで肩入れしている。欠郡というのは大体いまの大阪市にあたる地域で、要は本願寺との戦いが終われば「日本一富貴の地」大都市・大坂を清秀に与えられるように運動する、ということだ。

 秀吉と清秀が手を組んで、近江長浜から京、茨木、大坂、中国地方に至る物流のバイパスを作り上げる。そんな構想が実現するのだ。

 とはいえ、話はそこまでうまくは進まない。本願寺が手放した大坂の地はその後丹羽長秀に預けられてしまう。そりゃそうだ、大坂ほどの枢要の地を外様に簡単に与えてしまうわけにはいかない。

 とはいえ、おそらく大坂を清秀に、というのは秀吉の独断ではなく信長もほのめかしていたものと見えて、信長はその代わりにビッグボーナスの書き付けを清秀に与えた。

 「中国地方で2カ国を与えるから、そのつもりで格別に軍功を励むように」

 すると秀吉もこれを受けてすぐ「2カ国の件、貴殿の良き様にするべく奔走しますぞ」と申し入れた。このとき清秀の方から息子の秀成の後見を頼まれた件も「心得たり!」と快諾している。要はズブズブの関係だった。(このつながりが山崎合戦―明智光秀との戦い―でも生きるのだが、それは半年後の話)

 清秀に与えられるとされた2カ国としては備中・備後(現在の岡山県西部・広島県東部)あたりが候補となっていたらしいが、両国は古代から豊かな国として「上国」に格付けされ、備中は鉄の産地、備後はそれに加えて鞆の浦など重要な港湾を持つ舟運拠点として栄えていた。

 戦国時代の鉄の生産量は年間100トンという。

 これを当時の金額で計算すると2.3億円程度となり、その大部分が備中・備後の鉄で占められていたとすれば2億円近いマネーが毎年生まれ、それに従って領主の金蔵にも税金が入る。こんな美味しい話は無い。しかも舟運の便もセットだから、どこにでもその鉄を持って行って売れる。

 このように莫大な利権が期待できる土地を、清秀は自分の物にできるかも知れなかったのだ。

 そんな清秀の茨木城に宗及らを連れ込んで茶会を催したのだから、話題は当然清秀が中国地方で2カ国拝領した暁にどんな物産をどう商品として扱い、どう物流をコントロールして最大限の利益を確保するかに及んだに違いない。その場に利休は居なかったものの、その子分の山上宗二が同席していたのだから話の内容には当然利休も関わっていた。

 清秀が新領地をスムーズに支配するための投資マネーを誰がどれだけ負担するかについても相談された筈で、もちろん高額を負担した者ほど大きな権益を得ることができる。つまり中国地方のマネー利権は茨木城内の茶室という密室で談合された、ということになりますか。


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