テコンドーとは、創始者である崔 泓熙(チェ・ホンヒ)氏が、朝鮮半島の古武術(テッキョンやスバック)や中国武術、そして崔氏が日本留学中に学んだ松涛館空手を基礎として研究を重ね、独自の技術体系を確立。1955年にテコンドーと命名したことに始まる。
漢字では跆拳道と表記し、「跆」は“踏む・蹴る・跳ぶ”を意味し、「拳」は“拳(こぶし)で突く”こと、「道」は“正しき道を歩む精神”を意味する。(一般社団法人全日本テコンドー協会HPより引用)
オリンピック競技としての歴史は1988年のソウルオリンピックにおける公開競技に始まり、2000年のシドニーオリンピックから正式競技となっている。
そのシドニーオリンピックの女子67kg級で岡本依子が日本人初の銅メダルを獲得した。
以来、岡本は日本のテコンドーのパイオニアとしてトップをひた走りながらも、競技団体の分裂と統合に翻弄されるという苦い経験を持っている。
現在は、一般社団法人全日本テコンドー協会の副会長として競技力の向上、普及、人材育成に尽力している。
さて、その岡本の「あの負け」とは……
夢を探しにアメリカへ
そこで出合ったテコンドースピリット
「競技人生最大の負けは、道場を破門になったことです」
とゆっくりだが快活な関西弁でその経緯を話し始めた。
岡本は大阪の四天王寺高校を卒業後、早稲田大学に進学。3年生のときに「自分の夢を見つけたい」と交換留学生としてアメリカのオレゴン大学に1年間留学した。
そこで出合ったのがテコンドーである。中学、高校時代に空手道場に通っていた岡本にとって、それまではアクロバティックで特別だと思っていた蹴り技を主とするテコンドーが魅力的だった。
初めは学内のクラブに所属したが、楽しかった半面、あまり強くないことを知って物足りなくなった。街中にあった道場を見学に行ったところ、そこで人生の転機が待っていた。
「700人くらいの会員がいる道場で、目的別にクラス分けがされていました。たとえば、護身術クラス、女性だけのクラス、ちびっこたちのクラス、フィットネスを主としたクラスなどもあって、小さい子からお年寄りまで、みんながテコンドーを楽しめるようになっていました」
「孫たちの試合の審判をおじいちゃんやおばあちゃんがやっていたりするんです。それを見て、私の夢はこれや! と思いました。いつか自分も、みんなが楽しめるような道場を作って、先生になろうと思ったのです」
岡本がアメリカに留学した理由は「自分の夢を見つける」ことである。1年間の留学中に夢を見つけ、帰国後、その夢に向けた就職をしようと考えていたのである。
テコンドーと出合い、夢が見つかった。