家康を義弟にしただけで満足する秀吉ではなかった。続いて実母大政所(おおまんどころ)を人質として家康のもとへ送り込んだのである。流石の家康も、名うての「人たらし」にそこまでされては、忍従しつつ屈せざるを得なかった。
〝稀代の人たらし〟秀吉に手玉に取られる
全国制覇をもくろむ秀吉は、1587(天正15)年から翌年にかけて九州・四国を征伐したのに続いて、1590(天正18)年には最大の難敵北条氏の居城小田原城を大軍勢で4月に包囲し、11月には降伏させた。秀吉54歳、家康49歳。
小田原征伐を成し遂げた秀吉は、城下を見下ろす高台に家康を誘って、並んで立小便をしながら、はるか彼方に広がる関東の方を見やって、こう告げた。
「家康殿のお力添えのおかげで、全国統治への道筋が立ち申した。そこで家康殿には、これからは関八州の統治をお願いしたい」
これが今日の連れション(関東の連れ小便)の語源となる有名なエピソードで、家康は「寝耳に水の関東移封」を告げられた翌8月に江戸城へ入城することになる。
関東は、家康が生まれ育った三河から遥か彼方に位置する未開発の地であり、頼朝が鎌倉幕府を開いてからも京の都人たちは「関東の東夷(あずまえびす)」などと見下してきた。そんな僻地へ飛ばされても家康は、ひたすら耐えた。
そしてふと気づくと、家康は138万石で、秀吉は628万石。この大差を後ろ盾として秀吉は、家康を名実ともに臣下とするために、時には芝居がかったこともやるなどして、あの手この手で手玉にとり続けた。家康の〝耐える人生〟は、まだまだ続くのである。
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