秀吉は、姉川の戦いと同年の「志賀の陣」と呼ばれる戦いでも、浅井長政、朝倉義景、比叡山の僧らの敵に包囲されて窮地に陥った信長を助けて深謝され、信長が浅井・朝倉を滅ぼすと、秀吉は近江国北3郡(浅井の旧領)12万石を褒賞として与えられたが、その石高は、家康の当時の石高(60万石)の5分の1にすぎなかった。信長は240万石である。
そうした家康と秀吉の序列が本能寺の変で一変したのだから、大変なことだった。
小牧・長久手の戦い
秀吉は、本能寺の変の翌年には「賤ケ岳の戦い」でライバル柴田勝家を滅ぼし、天下人へと歩を進めた秀吉だが、目の上のたん瘤が2つあった。家康と信長の次男信雄(のぶかつ)である。
「信雄はバカっぽい」と見た秀吉は、「デマ作戦」に出た。「信雄の3家老が秀吉と通じている」という噂を流させたのだ。狙いは的中、信雄はその噂を信じ込んで3家老を殺し、秀吉を倒すために家康に助けを求めた。
「どこかで秀吉と戦って倒さねばならない」と思ってきた家康だったが、世間を納得させる「大義」がなかった。そこへ「盟友信長の遺児を助ける」という立派な大義が降って湧いたから秀吉と戦うことにためらいはなかった。そして始まったのが、秀吉と家康の初対決「小牧・長久手の戦い」である。
この戦いは、秀吉が、信長の三男信孝を擁立した柴田勝家を滅ぼした「賤(しず)ケ岳の戦い」の翌年(天正12〈1584〉年)4月に起きている。家康43歳、秀吉48歳のときだ。
小牧・長久手の戦いを通じて、秀吉は家康の強さに舌を巻くことになる。家康・信雄連合軍1万7000に対し秀吉軍は10万人。手もなくひねりつぶせるはずが、圧勝したのは家康だったのだ。
武力ではかなわないと悟った秀吉は、得意の謀略に走った。家康の知らないところで信雄を丸め込み、11月に単独講和を結んでしまうのだ。そうなっては戦争を続ける「大義」はなくなり、翌月には家康も和議せざるを得なくなる。
だが、家康にも意地がある。和議が成立しても、上洛して「臣下の礼」をとる意志はなかった。困り果てた秀吉の頭に閃いたのは、家康は正室築山殿の死後、継室をもらっていないこと。信長の命で築山殿を殺害したのは38歳のときで、それから7年も経っている。
秀吉は、自分の異父妹旭姫に目を付けた。彼女は家康より1歳下の44歳。結婚していたが離婚させて家康の継室として送り込み、有無をいわさず姻戚関係を結んだのである。