2023年2月8日(水)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月8日

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城島明彦 (じょうじま・ あきひこ)

作家

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東宝を経て、ソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから、『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)、古典の現代語抄訳に『超約版 方丈記』(ウェッジ)がある。

 戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の没年を色で表すとしたら、何色だろうか。

 古代中国(春秋戦国時代)では、人生を80年までとし、20年ごとに色分けして四季に当てはめた。いわゆる「陰陽五行説」である。この考え方に基づいて、20代までを「青春(せいしゅん)」、40代までを「朱夏(しゅか)」、60代までを「白秋(はくしゅう)」、80代までを「玄冬(げんとう)」とした。玄は、精白していない「玄米」や「玄人」という言葉から察しがつくように「黒」を意味する。

(田中秀明/アフロ)

 ただし、四季の始まりは「青春からではなく、玄冬から」とする説もある。玄冬については、唐代の詩人杜甫が「人生七十古来稀なり」と『曲江』という詩に詠んでいることから推して、当時は玄冬まで生きられる人はとても少なかったようだ。

 青春、朱夏、白秋、玄冬には、「四神相応(しじんそうおう)」と呼ばれる東西南北を守護する神獣も絡ませてある。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武がそれで、桓武天皇が平安京を造営する際に用いた手法で、家康が江戸の町づくりをするときにも使われた「風水」である。

 戦国の三英傑の没年は、信長が本能寺で横死したのは47歳、秀吉が伏見城で死んだのは62歳、家康が駿府城で没したのは75歳である。よって、信長の死は「白秋」の半ばなので〝薄い朱色〟といったところか。秀吉は玄冬に入って2年目の病死であるから〝かなり薄い黒〟だが、家康の死は「玄冬」も終わりに近い75歳だから〝ほぼ真っ黒〟で、「天寿を全うした」といってもよいだろう。

初陣は信長14歳、家康17歳

 27・24・19。この数字を見た瞬間にピンときた人は、相当な戦国史通である。

 1つ目のヒントは、27-24=3、24-19=5。信長は秀吉より3歳年上、秀吉は家康より5歳年上。2つ目のヒントは、信長が今川義元を撃破した「桶狭間の戦い」に関連した数字だ。

 もうおわかりだろう。正解は、桶狭間の戦いが起こった1560年5月時点での戦国の三英傑の年齢だ。信長27歳(朱夏)・秀吉24歳(朱夏)・家康19歳(青春)。

 数字が出たついでといっては何だが、三英傑の初陣の年齢にも触れておこう。

 信長は、13歳で元服した翌年に「大浜城攻め」(愛知県南部の碧南(へきなん)市)で初陣を飾った。父信秀の命を受けて那古野(なごや)城(名古屋市中区)を出陣し、戦地に火を放って無事帰還と『信長公記』は伝えるが、地元に伝わる昔話では「惨敗」したという。このとき家康は6歳。

 秀吉が信長に仕えるのは18歳からで、初陣は遅く24歳。まだまだ身分が低く、公式な記録は残ってはいないが、信長に心酔していたことや出世意欲が半端ではなかったことなどを考え合わせると桶狭間の戦いに参戦し、それが初陣と推定してよいのではないか。


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