それでも家康は、愚痴るどころか、譜代の家臣らの心配をよそに拒否するそぶすら見せなかったという。19歳という若さがそうさせただけではなかった。兵法に通じ、のちに信長や秀吉が一目も二目も置くことになる〝律儀で愚直な猛将〟家康の雛型がすでに備わっていたのだ。
家康は、大高城への兵糧入れに先立つ大仕事「丸根砦攻略」を桶狭間の戦いの前日の18日夜に敢行し、払暁には成功させている。
「砦陥落」の知らせを受けた義元は、家康が届けさせた首を実検すると、「わが鉾先には天魔波旬(てんまはじゅん)も適すべからず」(わが軍勢には天上の欲界最強の悪魔も敵(かな)わないのだ)と欣喜雀躍(きんきじゃくやく)し、「ああ、面白し、心地よし」と謡(うたい)まで歌っておきながら、家康には休息さえ与えようとせず、「ただちに大高城の兵糧入れをせよ」と命じる始末だった。
家康が必死に任務を遂行すると、義元は妹婿で大高城の城主鵜殿長照を安全な手元へ呼び寄せ、家康を危険な城に留まらせたのだから、冷酷非情な采配以外の何物でもなかった。
信長と家康はニアミスで終わった
大高城と桶狭間は1里(4キロメートル)くらいしか離れていなかったが、運命の歯車が噛み合うことはなく、桶狭間の戦いでの信長と家康の対決は実現しなかった。家康が義元の死を知るのは翌20日、それも夕刻になってからである。
家康の「大高城の兵糧入れ」に対する評価は高く、武田信玄は「元康は武道・分別の両方に達した人である。若手では日本一の武者といえよう」と手放しで絶賛したと『甲陽軍鑑』は伝えている。
信長が家康の実力を認め、「敵に回すとえらいことになる」と思ったのは、織田方が手もなくひねられた「丸根砦の攻略」「大高城への兵糧入れ」を通じてだったろう。
砦の様子が気になった信長は、桶狭間の戦いへと向かう少し前に熱田神宮からさらに数百メートル南へ進んで、源大夫社(げんだうゆしゃ)と呼ばれていた摂社(上知我麻(かみちかま)神社)のある高台に立ち、海の向こうを眺望した。すると、砦のあたりに黒煙が立ち上っているのが見え、家康に攻略されたことを知った。
そのことがきっかけとなり、義元の死で家康が人質から解放されると、さっそく同盟話を持ちかけるのだ。この一件を含め、「信長の出会いと別れ」については次回に述べる。