2024年4月19日(金)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月8日

 では、家康はどうか。14歳で元服して「竹千代」という幼名から「元信」に改名した。元信には名付け親がいる。人質となっていた今川義元から与えられた「元」だ。

 初陣は、元服から3年後の17歳。「寺部(てらべ)城攻め」(豊田市)といわれている戦いである。そのときの姓は、まだ徳川ではなく、松平を名乗っていた。

 武士の子は、14~15歳で元服を済ませると、次は初陣が待っていた。初陣は安全な戦いを選んでやるのが通例だったが、家康は人質だったので、その点が配慮されなかった。

 結婚は三者三様で、信長は〝政略婚〟、家康は〝人質婚〟、秀吉は〝恋愛婚〟だった。

 結婚相手と年齢は、信長が〝美濃の蝮〟こと斎藤道三の娘濃姫(のうひめ)(帰蝶(きちょう))と父信秀の意向で結婚したのは15歳だったのに対し、人質だった家康は16歳で今川義元の命じるままに義元の姪(築山(つきやま)殿)と結婚。一方、秀吉が結婚したのは、25歳と当時にしては遅かったが、手八丁口八丁で飛び切りの美女を口説き落とした。自分より格上の信長の家臣浅野長勝(弓頭)の娘おね(ねね)14歳。〝面食いで好色家〟秀吉の面目躍如といったところか。

信玄も褒めた「大高城への兵糧入れ」

 歴史に詳しくない子どもでも、少人数の信長が多人数の義元を奇襲して勝利した「桶狭間の戦い」という名称だけは知っている。

 戦闘は「大雨しきりに降る」(『松平記』)永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)の暑い日に行われたが、義元の人質になっていた家康(当時の名は元康)は、その戦いには参戦していない。大久保彦左衛門は「人質だった若殿を冷酷に処遇したことが自らの死を招いたのだ」と皮肉っぽい筆致で次のように『三河物語』に記している。

 「元康(当時の家康の名)のしつはらい(殿(しんがり))を成され候ものならば、かほどの事はあるまじきに、大高の城の番を申し付けられし事こそ、義元の運命なり」(もし元康に殿を命じていたら、屈強の三河武士団が命を張って、攻め込んできた信長勢を蹴散らし、義元を守っただろう。だが義元は、元康に大高城の留守番をさせ、桶狭間へ連れて行かなかった。だから、死んでしまうという皮肉な運命と相成ったのである)

 「今度家康は、朱武者(赤い具足の武将)にて先駆けをさせられ、大高へ兵糧入れ」と『信長公記』にある「大高城への兵糧入れ」は、信長の軍勢に包囲されて兵糧が尽きた今川方の孤立した城へ兵糧を運び込む任務で、「御一大事なり」と彦左衛門が評したように危険きわまりなかった。

 信長は、義元の進軍を予想して、見晴らしのよい丘陵に丸根砦、鷲津砦などいくつもの城砦を築いていたが、今川2万5000、織田2000という戦力比から自明のように、信長支配下の鳴海・大高両城が今川の手に落ちたので、信長は奪還しようとしていた。

 大高城は、今川から見ると、〝敵陣の真っ只中に突き出した孤城〟で、丸根・鷲津両砦との位置関係は、城を頂点に見立てると両砦が底辺となる頂角45度の二等辺三角形で、両砦との距離はどちらも400メートルしか離れていなかったから、義元の武将は誰も兵糧入れを引き受けず、家康が貧乏くじを引かされた形になった。


新着記事

»もっと見る