家康のコスパ戦争
そして慶長19年(1614年)11月19日から大坂冬の陣の緒戦、木津川口の戦いが始まった。
開戦前、イギリス商館の大坂駐在員、ウィリアム・イートンは「こちらでは鉛が100斤あたり55匁だが値上がりを期待して売らない。火薬は100斤あたり260匁だが、これも値上がりするだろう」と述べていたが、家康はそんな弾薬の高騰も構わず西洋製の大砲16門に国内製の大砲も投入させてイギリス商人の懐にお金をガッポガッポと打ち込んでいき、遂に大坂城を落として秀頼と淀殿の母子を自害に追い込んだのだった。
20兆円以上を注ぎ込んだ豊臣家を滅ぼすのに要した兵糧代は、豊臣家と同じ1人あたり1日5合支給(『後藤合戦記』)としよう。おなじく大坂城内の米価は銀120匁/石=40万円と、平時の10倍近くにはねあがっている(『薩藩旧記雑録後編』)。城外の幕府軍についても毛利家の吉川広家が家来に「兵糧米をどんどん送って来い。こちらでは米価が非常に高騰している。幕府の直属軍には幕府からも兵糧米が支給されているが足らず、兵卒は非常に困っている」と申し送ったぐらいだから、こちらも同程度の価格とすると、家康・秀忠の直属5万に支給された兵糧米は40億円分とはじきだせる。イギリスから買い上げた大砲と弾用の銅の値段は5億円余り(『慶元イギリス書翰』)。
さらに諸大名に支給した銀3000貫=100億円を加えても、出費は豊臣家に比べて遙かに少ない。こうして見ると、家康らしいコスパの高さだったのかもしれない。