2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2024年7月15日

 家康もそれを計算したのだろう、前回見た朱印船貿易に加えて糸割符仲間の制度を開始し、幕府による完全な管理貿易を実現させた。日本一の商業都市・大坂による豊臣家への富の流入を抑制しようという試みだ。

 だが、それでも大坂の経済力は揺るがなかった。家康による天下普請で進められている江戸城と駿府城の修築工事に従事していた毛利家は、慶長11年(1606年)に大坂で普請用の材木を購入している。

 大坂は材木の一大集積地でもあり、「徳川型公儀」の拠点整備の資材も資金も、頼りは大坂という状況であった。このとき毛利輝元は、「みな片桐且元に材木の件を相談している」と、且元に材木の手配などの協力を仰ぐ状況を書状に記した。

 まぁ、大坂は材木の一大供給地である紀州(現在の和歌山県)に近く、各地の河口から大坂へ運ばれる海上の搬送システムもできあがっているので、必然的にそうなってしまうわけだが、だが、これは家康にとって相当まずい。木材は当時の建材の中心、というより唯一の存在で、これが無ければ城郭の建設も都市開発もお手上げになってしまうからだ。

 現実としても豊臣家は幕府の象徴たる江戸城の天下普請に奉行を派遣している。西国大名が中心となった天下普請では豊臣家の求心力がまだまだ必要だったこと、そして大坂の商業を支配し、流通を牛耳る豊臣家の協力なくしては資材を調達することはできない事実を目の前に突き付けられた家康は、さぞ複雑な心境だったろう。

赤っ恥の家康

 そんな中、慶長16年(1611年)3月に家康は京・二条城で秀頼と対面する。8年ぶりに秀頼を見た家康は、彼が長身の堂々とした体躯に成長しており「賢明で人の下知(命令)を受けるようには見えない」とショックを受けた。

 彼にとってさらにショックなことには、秀頼が家康周辺に持参した土産。なんと金子960枚、銀子500枚他という、現代の価値に換算して20億円にものぼろうかという巨額の現金だった。

 これに対して、家康側が秀頼側に与えたのは、銀子1700枚他に過ぎない。1億6000万円程度では、いくらケチで通った家康といえどもあまりにも差がありすぎて周囲も恥ずかしく、目をあげられない思いがしたことだろう。まさに面目まるつぶれである。

 「秀頼の財力は底なしか。やはり、豊臣家をこのまま放置しておいては幕府の安定は望めぬわ」

 慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が発生して幕府と豊臣家の関係が一気に緊張すると、家康は慌てて申し開きに来た片桐且元にプレッシャーを加え、「秀頼が江戸に住むか、淀殿が江戸に住むか、そうでなければ豊臣家が大坂から他の土地に移るかを選べ」と迫った(『駿府記』)。

 主役の秀頼母子いずれかを江戸で監視して大坂城を抑え込むか、もっとストレートに金の成る木である大坂と要塞としての大坂城そのものを豊臣家から取りあげて無力化するか、である。家康にはもうひとつ、「大坂の町そのものを潰す」という選択肢もあったはずなのだが、皆様お分かりの通りそれをすると豊臣家だけでなく日本の経済そのものが崩壊して幕府は袋だたきになって滅亡となる。江戸時代になっても「天下の台所」、日本経済の中心であり続けた大坂の町の価値はそれほど高いものであり、それこそが秀吉が秀頼に遺した一番大きい財産だったのだ。

 太平洋戦争勃発を呼んだ「ハル・ノート」はアメリカのハル国務長官が中国からの撤兵などを日本に突き付けた最後通牒だが、「家康ノート」はそれより遙かにエグい条件闘争。これを受けた秀頼は戦いを選んだ。いや、戦わざるを得なかった。

 前代の公儀・豊臣家としてのプライドもあり、何よりも大坂城の家臣たちが黙っていない。開戦派は秀頼や淀殿、穏健派など完全に無視して城の金蔵から勝手に太閤分銅を運び出し、小さくて薄い板状の「竹流し金」に改鋳して軍備のために使ったが、最終的(豊臣家滅亡まで)に分銅金1000個、2兆円分にのぼる量が溶かされ改鋳されたともいう。


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