前回「<8泊で推定事業費10億円超>ツアコン徳川家康の織田信長への豪華絢爛ツアーの中身とは」で見てきた様に織田信長を歓待した徳川家康は「信長様に駿河国拝領の御礼に赴く」とのふれだしで天正10年(1582年)5月11日に浜松を出立。岡崎から尾張に入り、美濃国経由で14日、近江国番場(琵琶湖東岸、現在のJR米原駅の近く)に到着し、ここで丹羽長秀が用意した居館に宿泊したという。
家康が信長に提供した仮御殿同様、1泊だけとはいえ信長も手厚く家康を迎えたわけだ。ただし、信長は三河吉田城で酒井忠次(家康重臣)の接待を受けた際には200両(換算4000万円ほど)の黄金を報賞しているが、家康は長秀に何も与えていない。一見得したようでも、要は家康と長秀は織田家の下で同じ立場であり、報賞するされるという関係ではないというだけの事だ。
かつて信長とは同格の同盟者だった家康としては、改めておのれの立場を目の前に突き付けられた思いしかない。
そして翌日安土に到着。『川角太閤記』によれば家康の宿所は当初明智光秀屋敷、そして堀秀政屋敷と予定がコロコロ変わり、最終的には大宝坊という、大寺院の宿坊だったろう場所が当てられた。坊内に光秀が突貫工事で仮屋敷を造ったが、さすがに間に合わなかったと見えてインテリアまで手が回らず、食事の饗膳のみ金銀器が用いられたらしい(『家忠日記追加』)。
いくら家臣扱いとはいえ、VIPと言える家康の接待でこのドタバタぶりは余りにもお粗末で、信長と家康の饗応役・明智光秀の間に何らかのトラブルが発生していたことは想像に難くない。『信長公記』がこの経緯にまったく触れていないのも、かえってその微妙さを窺わせる。
おそらくは、信長の側に非があったために口をつぐんでしまったのだろうね。『川角~』が言うような「料理の魚が腐って臭ったのを、信長が怒った」なんて単純な話ではなく。まぁしかし、それは本稿とは無関係なのでまた別の機会に。
あ、余談ついでにもうひとつ述べておくと、家康が安土城下の大宝坊を宿所としたということは、彼が安土に屋敷を持っていなかったことの証左となる。安土城跡では大手道の中ほど右側が「家康邸」(現在の摠見寺本堂)とされてきたが、これはあくまで伝承に過ぎないことがお分かりいただけるだろう。
そんな訳で、家康はホスト側の織田家がなんだかゴタゴタして落ち着かないな、ときっと感じながら、家忠らから集めた馬鎧と黄金を献上した。そう、以前紹介した黄金3000両と馬鎧300領、推定換算お値段12億円の超大型ギフトだ。
ところが信長、このギフトを素直に受け取らない。黄金1000両を「京見物の経費に使うといいがや」とかえしてしまったのだ。
この微妙な返金、どう考えれば良いのかをちょっと考えてみたい。