2024年7月1日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2024年5月21日

 幕府が発行した朱印状を持つ西国大名(島津氏、細川氏、加藤氏、鍋島氏ほか)や豪商がおこなうこの貿易、実は家康が発明したものではなく、秀吉がすでにおこなっていたと言われている。秀吉は正室の北政所に大坂東南の平野郷を与えたが、この地の末吉氏が朱印船貿易のメンバーだった。「儲けはおねのものにしやー」ってなもんである。

 ところが、秀吉は「あの」朝鮮出兵をやらかしてしまった際、ゴア(ポルトガルのインド総督府)やマニラ(スペイン総督府)、台湾などに高圧的な態度で恫喝外交を展開してしまった。東南アジアまで悪評を振りまいてしまっては、朱印船貿易がうまくいくはずもない。

 これが、家康にとってはもっけの幸いだった。関東に引っ越したおかげで朝鮮半島に渡ることもなかった家康は、外国からイメージが良い。

どれだけ儲かったのか?

 関ヶ原後、彼は諸外国にせっせと働きかけて「親善外交」を推し進めた。無論、朱印船貿易をふたたび活性化させて儲けたい豪商たちもこぞって家康を支持して幕府の政治に協力していく。そういう世の気分、ムーブメントというものが在ってこその家康の天下が実現したのだ。

 では、その朱印船貿易、果たしてどれほどの利益をもたらしたのだろう。家康による朱印船貿易が慶長9年(1604年)開始されてから元和2年(1616年)の彼の死まで、研究によれば1年当たり平均15隻の朱印船が海を渡り、銀換算で年平均7500貫目の交易品(無論当時世界を席巻した国産の銀そのものが多くを占めた)を持ち出して100%の利益をあげたという。

 ということは、銀の値段を米価を基準に1匁(0.0001貫)=2250円と置けば、1700億円近い巨利が毎年あがり、加えて船に便乗する零細貿易商たちの船賃・荷代もざっくり45億円/年計上されたとすれば、

 税率を10%と仮定した場合年間180億円近くが幕府の金蔵に積み重なっていったという計算になる。こうして幕府はいよいよ富んでいったのだが、それでも豊臣家は揺らがなかった。と、いう所で続きは次回に。

【参考文献】
『信長公記』(角川文庫)
『朝野旧聞ほう藁』(汲古書院)
『朱印船と日本町』(岩生成一、至文堂)
『新編日本史辞典』(東京創元社)
ほか
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