2024年12月22日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年12月10日

 あなたは、上司に対して「面従腹背」する場面が多いか、「絶対服従」する場面が多いか。そう問われたら、ほとんどの人は「命じられた内容次第」と答えるのではないか。

 では、あなたの「我慢度」は、「家康級」か「秀吉級」か「信長級」かと問われたら、どう答える? 戦国の三英傑のわかりやすい比較は、誰でも知っている次の川柳だ。

信長級 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
秀吉級 鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス
家康級 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

 要するに、昔の人は「信長は短気、家康は気長、秀吉はその中間」とみていたということだが、家康は「気長」というよりも「成らぬ堪忍、するが堪忍」を信条とする〝忍従の人〟というべきだろう。

〝忍従の人〟徳川家康

 「石の上にも三年」というが、家康の場合はその程度ではすまなかった。3歳のときに母が政治的理由で離縁され、6歳から19歳まで足かけ13年(織田家2年・今川家11年)も「人質」として過ごし、その間の16歳のときには父が家臣に殺されてもいるので、家族の愛に飢え、我慢強さにも〝年季〟が入っている。というより「度」を超えていた。

 大人になっても直らなかった家康の「爪を噛む癖」は「自制心が強い性格」の証拠であり、「律儀」「愚直」「誠意」に徹したのも、逆境で身につけた〝耐える処世術〟といえる。

合戦に勝って謀略に負ける

 「桶狭間の戦い」で今川義元が死んで家康は自立したが、大きく飛躍するきっかけは21歳のときに8歳上の信長と結んだ軍事同盟である。家康は6歳から8歳まで織田家の人質だったから、信長と話をしたり遊んでもらったりした可能性は高いが、そういうことを証明する資料は残されていない。

 信長とは、家康が26歳のときに互いの子(家康の嫡男と信長の長女)を政略結婚させ、両家の関係は磐石なものになったかにみえたが、1579(天正7)年8月、家康38歳のときに嫁姑関係がこじれ、嫁が「姑と夫が武田に内通」と父信長に直訴する事件が起きる。

 信長は激怒し、「正室と嫡男を殺せ」と命じた。家康の反応はというと、弁明も助命嘆願もせず、唯々諾々と従った。だが心中は複雑で、後日、関ヶ原の戦いの折などに「息子がいたらなぁ」と側近に漏らしているので、信長の権威にひたすら忍従したのだと推測できる。


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