2024年11月22日(金)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年12月10日

 信長がその手の非情なことを平然と行ったのは、明智光秀に対してもだった。家康は黙って涙を呑んだが、光秀は信長に反旗を翻す。それが「本能寺の変」だ。

 家康が信長の自刃を知るのは、信長の招待の一環だった堺見物を終えて岡崎へ帰ろうとした矢先である。家康は「伊賀越え」と呼ぶ難所を通るルートを選んで逃走し、九死に一生を得たが、その隙に天下取りの機会を46歳の秀吉に出し抜かれた。家康41歳である。

 備中高松城を攻略中だった秀吉は、毛利軍と急遽停戦すると自城の姫路城へと引き返し、「山崎の戦い」で〝主君の仇討ち〟を果たし、天下人に名乗りを上げた。その時点で〝ポスト信長は家康〟の芽は完全に摘み取られ、勢いに乗る秀吉は翌1583(天正11)年4月、ライバル柴田勝家を「賤ケ岳の戦い」で葬って、名実ともに天下人となるのである。

 秀吉が家康と大きく異なるのは、間髪を入れず、次々と畳みかける戦い方だ。秀吉は続いて〝目の上のたんこぶ〟だった信長の遺児信雄(のぶかつ)をつぶしにかかる。

 信雄は、家康に助けを求めた。信雄は〝同盟者の遺児〟なので助けて当然という「大義」があり、家康は連合軍を組んで秀吉と戦った。家康43歳、秀吉48歳の「小牧・長久手の戦い」である。

 合戦にかけては秀吉より家康の方が数段上だ。秀吉は敗れ、「家康を敵にしたら大変」と再認識するが、ギブアップはしない。信雄の凡庸さにつけ入り、単独講和を結ぶのだ。家康から見ると、「大義」が消え、もはや戦う意味がなくなった。

 そんな心中を見透かし、秀吉は家康と講和。家康は「戦いに勝って謀略に負ける」という教訓を得たのだった。

秀吉から学んだ〝腹芸〟と〝人たらし術〟

 秀吉が〝腹芸〟と〝人たらし〟の本領を発揮するのは、小牧・長久手の戦い終結後だ。力づくでは家康にかなわないと悟った秀吉は、異父妹の旭姫を強引に家康の継室(後妻)に押し付け、さらに実母の大政所を人質として送り込むことでダメを押す。

 家康は、そのときも黙って秀吉の申し出を受け入れ、「臣従の礼」をとるために秀吉に会いに出かけるのである。45歳のときの出来事である。

 旭姫という名から若い女性を連想する向きもあろうが、とんでもない。家康より1歳下の44歳で、しかも結婚していたのを無理やり別れさせたのである。

 夫は自害したとの風聞も流れたし、旭姫の心中も想像がつこうというもの。彼女が家康に嫁いだのは1586(天正14)年5月だったが、1590(天正18)年2月には病死してしまう。秀吉が「小田原征伐」を成功させて天下を統一したのはその5ヵ月後、と知ると複雑な思いに捉われるのは筆者だけではあるまい。


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