2024年11月22日(金)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年12月10日

 家康の耳には「秀頼は凡庸」との噂が入っていたが、実際に会ってみると、しっかりした印象を受けたので、自身の老いに対する「焦燥」もあって、「早いうちに芽を摘んでおくにこしたことはない」と決断するに至る。

 そこから「最上の戦略」と『孫子』も位置づけている〝謀略〟のスイッチが入り、家臣では本多正信、僧侶では金地院崇伝、天海僧正ら複数のブレーンの「せっつきと差し金」で〝君子狸変(りへん)〟、秀頼や淀殿に寺院の建立・改修を勧めて財力消耗を図った。

 秀吉の供養を名目とする方広寺の大仏再建もその1つで、「戦いを仕掛ける口実はないか」と鵜の目鷹の目で探していると、方広寺の鐘銘問題が見つかった。

 「国家安康、君臣豊楽とは何事か。家康という字を分断する呪文ではないのか。ついては、秀頼が国替えに応じるか、淀殿を人質として江戸へ差し出すか。そのいずれかを選べ」

 豊臣方はどちらにも応じなかったため、家康と秀忠は20万の兵を率いて大坂城を包囲、攻め勝つ。寄せ集めの豊臣軍で1人気を吐くのが、出城「真田丸」に拠る真田幸村だった。

 1614(慶長19)年11月、家康73歳の戦いが「大坂冬の陣」である。勝って講和条件として求めたのが「外堀を埋めること」で、西軍が呑むと内堀も埋めた。このようにして家康とブレーンは〝悪知恵の限り〟を尽くして豊臣家を滅ぼしにかかったのだった。

辛抱を重ねた家康から学ぶこと

 翌年5月、両者間に「大坂夏の陣」と呼ばれる戦いが再び起こるが、〝死に体同然〟の西軍が勝てるはずもなく、23歳の秀頼と48歳の淀君が大坂城で自刃して合戦終結。信長が道を開き、秀吉が継承発展させた安土桃山時代が終わりを告げ、74歳の家康が推進する「元和偃武」(げんなえんぶ)と呼ぶ戦争のない平和な時代が名実ともに幕を開けたのである。

 幼少期から人質として辛抱に辛抱を重ねた家康は、信長や秀吉の後塵を拝し続けたが、決して焦らず、慌てず、好機が到来するのをじっと待ち続け、関ヶ原の戦いを制して59歳で天下を取ると、265年も続く江戸幕府の磐石の基盤を築き、倹約質素な生活を送って75歳で没するが、思い残すことは何もなかっただろう。

 そんな家康の〝忍耐力〟こそが、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、頻発する天変地異などが象徴する〝令和の混迷時代〟を生き抜くお手本とすべきかもしれない。

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