家康が小田原征伐に加わるのは、旭姫が没した2カ月後である。家康が、慣れ親しんだ三河・遠江などの領地から関東への移封を秀吉から突然通告されるのは、戦いが3ヵ月でケリがついたある晩のこと。秀吉に誘われて城下を見下ろす丘の上で〝連れション〟しながら、そういわれたのだ。秀吉はそういう演出が大好きなのである。
家康に大きな転機が訪れるのは、朝鮮出兵である。51歳での「文禄の役」、56歳での「慶長の役」だが、家康は二度とも半島へ渡海せずに前線基地の肥前名護屋に留まることができ、兵力と戦費を温存できた。
臨終が迫っていると感じた秀吉は、家康らを枕元に呼んで「秀頼をよろしく頼む」と涙ながらに念を押し、五大老五奉行間で誓書を取り交わすように求めたので、家康は五大老筆頭であったにもかかわらず、またまた我慢を強いられることになる。
朝鮮出兵は秀吉の死で幕引きとなる。信長は49歳で非業の死を遂げ、秀吉が62歳で病没したことで、家康は自身の「老い」を意識せざるを得なくなった。
朝鮮出兵は、豊臣家の家臣を二分化する種をまいた。加藤清正らの「武将派」と石田三成らの「文吏派」に分裂したのだが、長老の前田利家が両派の争いをかろうじて抑えていた。ところが、その利家が病没したことで情況が一変する。
会津の上杉景勝が一戦交えようとする準備をしているのを察知した家康は、「大坂の石田三成と共謀してわしを挟み討ちにする作戦に違いない。ならば先手を打ち、東上すると見せかけて三成を決起させ、引き返して滅ぼそうではないか」と考え、関ヶ原の戦いが勃発するのだ。17歳の初陣から指折り数えて42年後である。
59歳の家康は、小早川秀秋らを内応させて楽々と勝利をおさめ、首謀者を斬首した。
西軍に加担した大名は改易・減封となり、秀頼はわずか3国(摂津・河内・和泉)65万石の一大名に転落したが、それでも以前と同じように大坂城で暮らすのである。
「老い」が〝謀略の家康〟へ豹変させた
家康は、61歳のときに二条城の築城に着手すると同時に東本願寺を創建させた。西本願寺との間にくさびを打ち込んだのだ。さんざん苦労した「三河一向一揆」から39年後のことで、余人には「じれったい」が、それが「あわてず、急がず」の家康流である。
62歳で征夷大将軍となると、孫(第2代将軍秀忠の長女)の千姫を秀頼の正室へと送り込み、豊臣家との姻戚関係を強化する。
家康は、理想的な幕藩体制の基礎を築くために、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』や〝帝王の教科書〟『貞観政要』などを熟読し、64歳で将軍職を秀忠に譲って大御所を名乗り、65歳で駿府に隠退、「二元政治」を行うが、ずっと気にかかっていたのは秀頼の処遇である。
1611(慶長16)年3月、家康はようやく決断。秀頼を二条城に呼んで会見し、臣下の礼をとらせた。関ケ原の戦いから11年もの歳月が経過し、70歳になっていた。