三河一向一揆、伊賀越えとともに「家康三大危機」のひとつに挙げられる三方ヶ原の戦い。武田信玄によって木っ端微塵に撃破され、命からがら浜松城に逃げ帰ったという時点ですでに「大危機」だが、この合戦で家康はそれ以上の危険な状態に陥っていた。
それが、浜名湖周辺の水陸交通だ。
大河ドラマ「どうする家康」の監修者でもある学者の平山優氏は、三方ヶ原の戦いについて、武田信玄が進軍先を三河から堀江城という徳川方の城狙いへと変更したので、慌てた家康が浜松城を飛び出して三方ヶ原での戦闘に及んだ、とする。
堀江城というのは浜名湖の北東岸、内浦湾を囲い込む岬に築かれた山城だ。信玄が堀江城に軍勢を進ませたというのは『信長公記』に「武田信玄堀江の城へ打廻らせ相働き候(信玄は堀江城へ軍勢を転進させ、攻撃した)」とある他、「信玄が堀江城を攻撃しようとしているとの報告を受けた家康が、太田吉勝ほかを増援に送った。武田軍は堀江城下を荒らしたがその時は本格的に攻撃せず、三方ヶ原の戦いの翌日に堀江城を攻めた。しかし城方が守り切った」と『寛永諸家系図伝』に複数の記事がある。
信玄が堀江城攻撃の姿勢を見せ、それを知った家康が慌てて城へ援軍を送り込み、そのうえで自分も信玄の堀江城攻撃を牽制するために出陣したのだけれど、三方ヶ原で両軍の小競り合いが始まってしまった。
「がう(郷)人ばら(里人たち)を出させ給ひて、つぶて(礫)をうたせ給ふ」(『三河物語』)
「武田信玄水役の者(土木作業員)と名付けて、三百人ばかり真先にたて、彼等にはつぶてをうたせて」(『信長公記』)
「わが(徳川方)兵初め礫を打ちかけたり。敵もまた交礫を飛ばせたり」(『武徳大成記』)
武田軍・徳川軍ともに石合戦から始まってそのままずるずると本格的な戦闘に拡大していったらしい。
当日は北西風と降雪が激しく視界が不良だったという記録もあり、徳川軍にとっては著しく不利な条件だったらしい。ということは、家康が積極的に決戦を志向したとは考えにくいから、予定していなかった主力同志の衝突にまで発展してしまった、というのが事の真相のようだ。
ドラマでは家康が「我が家の戸を踏み破って通るのを黙って見ている者があるか!」と遠江国に侵入し浜松城近くを通過していく武田軍を放置できない、と武士の意地にかけて決戦を決意したかのように描かれていた。それは従来の家康伝説の鉄板ネタでもあったのだが、どうやらそうではなかったということだろう。
結果、家康は信玄によって木っ端微塵に打ち破られ、危うく討ち死にする羽目に遭い、夏目吉信や本多忠真らの犠牲のおかげで命からがら浜松城に逃げ込んで助かったわけだ。