民話に彩られた三方ヶ原の戦い
<「三方ヶ原の石神さま」>
「細江(気賀を含む浜名湖北東縁)の男が浜松からの帰りに三方ヶ原を通ると、何度捨てても同じ小石が草鞋に挟まり、しかも段々大きくなり、しまいには男の家の祠の中に転がって入った。それから男の家は栄えた」
気賀の繁栄、豊かさを表す民話なのだろうが、石から始まった三方ヶ原の戦いで大敗したとはいえ、家康はそれから段々と栄え、27年後にはついに天下を取るのだから。
<小豆餅売りに追われる>
三方ヶ原から浜松城へ逃げる途中、家康は空腹で一歩も動けなくなってしまった。と、ちょうどそこに一軒の小さい茶店があり、小豆餅を売っている。家康は2つ3つと餅を頬張ったが、ちょうどそこへ武田軍が追い掛けて来た。慌てた家康、代金も払わずに逃げ出したから、店のお婆さんは「食い逃げは許さんで」と追い掛けた。2キロメートルほど南でようやく家康をつかまえたお婆さん。「やい餅代ひとつ当たり3文(300円弱。ちなみに江戸時代の餅菓子が1個5文という例がある)じゃ、払わぬかよ」と談じ込み、家康は頭をかきながら全額支払ったという。お店があったところは現在「小豆餅」という地名となり、お婆さんが代金回収したところは「銭取」となっているということだ。
いずれも民話ということで、史実とは別に考えた方が良い話なのだが、それにしても浜名湖という土地と三方ヶ原の戦いはマネーの話が尽きないのである。
その4カ月後、武田信玄は死去した。家康にとってはもっけの幸い、虎口を脱したというところ。信玄の跡を継いだ勝頼とはその後も死闘が続くが、天正3年(1575年)長篠の戦いを境として形勢は一気に変わり、浜名湖の気賀も武田家から家康の手に戻った。
長篠の戦いのマネートークについては過去に織田信長回で論じた(「織田信長が図った長篠の戦いに向けた大買収作戦」など)のでそちらをご参照願うとして、その勝頼が最期を迎えたのが天正10年(1582年)。織田軍が美濃から、家康も駿河から、それぞれ武田領へ攻め込んだ「武田討伐」の戦いだった。
戦いは十日余りであっさりと終わり、武田家は滅亡。家康にとって信玄時代から怖れに怖れた宿敵は消えた。
しかし、家康はこの直後に大散財をすることになる。それはまた次回に。
『静岡の伝説』(角川書店)
『日本の民話7』(未来社)
『中世のみちと物流』(藤原良章・村井章介編、山川出版社)
『朝野旧聞ほう稿』(汲古書院)
『徳川家康と武田信玄』(平山優、角川選書)