2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年10月15日

信玄の遠望

 では、家康はなぜ自分を危険にさらしてまで堀江城の失陥を防ごうと考えたのだろうか。

 堀江城の西の対岸には、これも湖に突き出た岬に宇津山城という山城があった。このふたつの城は、相呼応して船を行き来させる拠点となっていた(『宗長手記』)。

 信玄はすでに浜名湖の南端・今切の渡を封鎖すべく武田水軍を遠州灘に出動させており、浜名湖の舟運を制する要衝だった堀江の城を押さえてしまえば、完全に水上流通がまるごと彼の手に入る。また陸では三方ヶ原から進んで浜名湖の北側を走る本坂道を押さえ、南では「宇布見の渡り」(宇布見-笠子川-吉美)から東海道に接続される当時の東西バイパスを遮断してしまえば、浜松城は水陸ともに三河との連絡を分断される。

 こうして物理的に完全な孤立状態に陥れば、家康は浜松城を捨てて三河に逼塞する他は無い。

家康が三方ヶ原へ出撃した浜松城

 これだけでも家康にとっては致命的だが、堀江城=浜名湖流通を失うことは大名としての徳川家の存廃にも関わる大問題だった。

 今川氏支配の時代、今切の渡・宇布見の渡りを扼する新居の関所の収入からは、年間50貫文の上納金が今川家の金蔵に入っていたが、これは家康の時代にもほぼ同程度だっただろう。現代の価値で500万円ほど。

 この時期から四半世紀後、新居から舞坂(今切の渡の東側)までの運賃が1駄40貫目あたり鐚銭18文(約7200円)、客1人と荷20貫目を乗せる場合を「乗掛」といい10文(約4000円)。新居から浜松までが70文(約2万8000円)だった。現在、新居から浜松までのタクシー代は5000~6000円。それに比べればずいぶんとお高いが、ちょっと舞阪について説明していけば、この料金についても納得できるだろう。

 舞阪の見付という土地では、家康が12人の有力者に升座の責任者として特権と米座の米の運送を命じていた。つまり、それだけ各地の商人が集まる場所で、統一の升で大規模な商業活動がおこなわれていたということになる。関所の税金に加えてこれだけの駄賃を払っても運ぶ荷がそれ以上の利益を生んでくれたのだ。

マイサカン・ドリーム

 こんな風だから、舞阪には「舞阪の麦飯長者」という伝説も残っている。浜松から舞阪(今切の東側)へ馬子が老人を運んだところ、馬の背に50両(1000万円)入りの財布が忘れられており、いくら待っても老人は引き取りに来ない。とうとう馬子はそのお金で貧者に麦飯施行をすることにしたが、お金をすっかり使い果たしたあとから段々と金運に恵まれ、長者と呼ばれるようになった。

 地元に投資すればするほどどんどん収入が増える。舞阪はそんなお伽噺もまんざらホラではないんじゃないかと思わせる、「マイサカン・ドリーム」を実感させてくれる場所だったのだ。

 さらに舞阪の話を続けよう。三方ヶ原の戦いの前年、家康は今川時代5貫500文の年貢を納めていた見付の問屋兼宿屋の豪商2軒に5貫文(50万円弱)の年貢を課した。ところが2軒は4貫文(40万円弱)しか納めない。

 さぞかし家康はおかんむりで2軒を責めたと思うだろうが、さにあらず、さにあらず。


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