天正3年(1575年)長篠の戦いで、徳川家康は織田信長との連合軍で武田勝頼との決戦に臨み、快勝を得た。4年後には大賀弥四郎事件の「整理案件」としてそれまで棚上げにしていた反・家康派岡崎家臣団の大粛清を断行した。彼らの神輿になる危険性があった嫡男・信康とその母・築山殿(瀬名)にも死を与え、徳川家は安定を取り戻す。
その翌年、高天神城が家康の手に戻って遠江国から武田勢力が一掃された。この時点で家康の所領は55万石、250億円程度。
とはいえまだまだそれがすぐに家康の懐を潤すかというとなかなかそうもいかなかったようで、この直後家康は「信長様への挨拶に安土城へ出向くで、土産のお金と馬鎧が要るだわ。用意してちょ」と配下の国衆たちに割当をおこなっている。
実はこのお土産、すぐには献上されず翌年の安土参りの時になって信長に献上されることになる。本能寺の変の直前である。
その量は、黄金3000両と馬鎧300領(『当代記』)。
信長へのプレゼントなら金箔などを全面に施した超豪華な馬鎧だったと思われるから、黄金の総額と馬鎧の総額がイコールだとすると12億円にのぼる。
家康家臣の松平家忠はこのうちから馬鎧3領を割り当てられたと記録しているから、単純計算なら200人ほどの国衆が賦課されたのだろう。
このお土産の件、後でもう一度触れるので覚えておいて下さい。
12億円分を家来たちに分担させたぐらいだから、家康自身も尾羽打ち枯らした状態だったのは間違いない。さもないと、家忠あたりが日記でもっと辛らつに愚痴っていたはずだ。
だが、翌年家康はあっと驚くような散財をやってのける。
武田征伐へ大胆な懐柔策
明けて、天正10年(1582年)2月、織田信長は満を持して武田征伐の号令を発し、家康もこれに従った。
家康が担当するのは、駿河から甲斐に侵攻する南方ルート。当時、駿河国は武田領で、勝頼の叔父の穴山梅雪が江尻(現在の静岡市清水区内)でにらみを効かせていた。家康はこの梅雪に調略を仕掛けていた。
3月1日、「江尻穴山味方に済み候」(『家忠日記』)。梅雪は寝返りに同意。翌日、家康は梅雪にこう書き送っている。