「甲斐国を差し上げる件、実現するまで2年3年掛かっても信長様から扶持を下されるよう斡旋する。もしダメならこの家康が扶助する」
甲斐一国を梅雪に与えるよう長期戦覚悟で交渉するというのはなんだか絵に描いた餅のような話だが、すでに織田の大軍が信濃になだれ込み、「信州一篇になされ候」(同書)とアッという間に高遠城まで進んで城を包囲するという状況を把握している梅雪としては、共倒れを避けるため不確実だろうがなんだろうが家康の言葉にすがるしかない。
実は家康がこの書状を梅雪に送った同じ日、高遠城は陥落して城主の仁科盛信(勝頼の弟)以下500人が討ち死にしている。梅雪の案内で駿河口から攻め入った家康も11日に甲府まで到着した。この日、勝頼は天目山で自害して果て、甲斐武田宗家は滅亡している。
駿河を得てはセレブになれたか?
さぁ、話はここから。武田征伐に参加した家康は、その見返りとして信長から駿河一国を与えられて駿・遠・三3カ国70万石の大大名になった。
ここでちょっと家康が手に入れた駿河という国について考えてみよう。温暖な気候で海の幸山の幸に恵まれ、古代の豊かさランキングでは大国に次ぐ上国。鎌倉時代からはその気候や土壌に適した静岡茶の栽培も始まり特産品となっている。そして何よりも、古代からすでに駿河が黄金の三大産地のひとつとして挙げられる金山が存在していた。
そう、以前にも述べたが火山あるところに金山あり。富士山の北側に武田氏の黒川金山があったように、南側には安倍金山や富士金山(麓金山)が栄えていたのだ。今川家の財政を支えていたこれらの金山はその後武田家の支配下となり、富士金山からの採掘量は延べ棒24万両にのぼったという。
ここでの「両」は重さを示すものとして、1両=41~42グラムで換算すると10トン。小判ならざっくり57万両に相当する。
1140億円、信玄が駿河を併合してから武田家滅亡までの13年間にわたり、年間87億円だ。凄すぎてめまいしそうな金額じゃないか!ちなみに当然といえば当然だが、延べ棒の「両」=小判1枚の計数単位である「両」としても金額はほぼ同じだ。
これに安倍金山の黄金も加えれば想像を絶する今川家の財政を支える存在だった。それが家康の手元にそのまま入れば、徳川家は文字通り戦国日本の〝金満家〟になれるはずだった。
お金についてはいろいろと苦労してきた家康、ようやくここに来て財産運がアップして来たか?
ところがどっこい、この富士金山は鉱脈が枯れつつあったようで20年後には採掘が停止されている。それはそうだ、富士金山が隆盛のままならば勝頼の軍資金も底をつかずまだ武田家は命脈を保っていたかも知れないし、なによりそんなオイシイ「黄金のなる木」を信長があっさり家康に渡すとも思えない。やはり駿河のゴールドラッシュはこの頃すでに終焉の様相を見せていたのだろう。
そのうえ家康の悲劇(笑)は続く。この年は三河で「大水(大風)三度出候て、世の中悪し」(『家忠日記』)という天災続きとなり、家康の懐具合も一層苦しくなる。まったく世の中うまくはいかないものだ。
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そんな左前の家康が、このあととんでもないことをやってのけるのだから面白い。
「奇特と御感なされ候」(『信長公記』)と信長から大絶賛されたのだ。