三方ヶ原の戦いから3カ月半、武田信玄は三河から甲斐へ戻る途中でその生涯を閉じた。徳川家康、万死に一生を得る! だが、信玄の跡を継いだ勝頼も、家康にとっては手強い相手だった。
天正3年(1575年)4月、徳川領は大激震に見舞われる。家臣の大岡弥四郎ほか数名が勝頼に通じ、家康の長男で岡崎城主の信康が出陣する隙を狙って武田軍を岡崎城に引き入れようと企んだことが発覚したのだ。
この弥四郎とは何者なのか。生まれつき農政や土地支配に才能があり、計算能力も高く経理と租税管理に任じ、ついには岡崎の町奉行に昇ったという(『徳川実紀』他。大河ドラマでは岡崎城奉行となっていたと記憶しているが、城奉行って何をする役職なのだろう? 普通に岡崎郷の奉行でよくない?)。
同じ町奉行の松平新右衛門や家老の石川春重(異説あり)まで抱き込んでの謀(はかりごと)だったから、成功の可能性は高かった。
なにしろ弥四郎は町奉行というだけでなく三河の徳川直轄領の代官頭であり、さらに「諸事支配人」(『傳馬町旧記録』)まで兼ねて家康の全権代理人みたいな立場だったのだから。そのうえ家老まで一味していれば、逆に失敗するはずが無いとさえ言える。
そんな弥四郎は、15年前の永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの際に記録に登場している。今川義元が織田信長によって討たれた後、大高城の家康は三河へと撤退するのだが、その道案内をつとめたのが馬廻(うままわり)の弥四郎だった(『三河海東記』)。
道案内といっても、「この道をまっすぐ進んで、次の角を右へ曲がって~」ではない。尾張の大高から三河岡崎まで。その距離はわずか25キロメートルに過ぎないが、織田軍や落ち武者狙いの野盗や一揆が襲って来ないとも限らない。誰かを頼ろうとしても、裏切られ織田方に売られる可能性もある。
すご腕弥四郎の経済支配
ここだけを取っても、弥四郎は尾張-三河の通行に慣れていて、信頼できる人脈も持っていた、という事になる。『徳川実紀』には〝普段は浜松(家康の本拠)に居て、折々に岡崎へ出向いて信康の補佐もしていた〟とあるから、三河から東の遠江浜松の経路も熟知していた。尾張-三河-遠江を股にかける男だ。
さらに注目したいのは、弥四郎が属していた大岡一族の本拠地だ。彼らは八名郡の大岡に住んでいた。現在で言うと愛知県新城市黒田の内になる。
その大岡の位置というのが重要で、北は長篠に近く、その先には信濃国がある。東は遠江国境に近い。南に進むとすぐ浜名湖が広がっている。長篠から南下する豊川にも近く、上流の川路村ではこの頃すでに舟運が開始されていたらしい。ちなみに、弥四郎の舅だった中根正照(徳川家臣で、二俣城主などをつとめた)の一族の子孫は、のちに豊川舟運の整備拡大に貢献している。
至近には要衝として宇利城や新城があり、松平・今川・武田の争奪の的ともなるキーポイントだった。