2024年5月19日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年12月27日

 ちなみに信長が指示した米は、時期を考えると少なくとも収穫から1年近く以上経過している「古米」だが、当時は新米より古米・古古米などの方が高価だった。乾燥が進んで1升あたりの粒が多くなるからで、多少パサパサしていてもその分長い日にちにわたって食べられる方が重宝されたらしい。

始まった商人たちの離反

 とはいうものの、これは徳川領の商人にとってはたまったものではない。なにしろ、米の手配・搬送と販売の両面で蚊帳の外に置かれるのだから。彼らは「信長様は我らの商圏を完全に無視しとらっせるで。このまんま行けば我らはあっという間に尾張の商人に追い散らかされてまうわ」。

 そして、こう決断した。

 「もうじき家康の殿の経済力は尽きるだらー。それに比べて、武田勝頼は信玄以来の甲斐の金山の黄金にものを言わせて軍勢をあちこちに催しどんどん儲けの多い土地を押さえてくるわ。だで、今の内に先物買いしておくのがお値打ち(お買い得)というものだで。そうすりゃ俺らぁの仕事も甲斐・信濃・駿河にまで広がって、ますます繁盛といくだらー」

家康正室・築山殿(瀬名)首塚。大賀弥四郎事件から5年、慎重な家康は忘れた頃に岡崎関係者の大粛清をおこない、妻と長男も処分してしまった

 商人たち、そして弥四郎はこう考えたに違いない。家康でも勝頼でも、自分たちの経済活動を保証し援助できる方につく。武士は家と土地を守るために主君を代え、商人は商売繁盛のために協賛先を代えるのだ。

 「そんなの妄想じゃないか」と言われるかもしれないが、実際にこんな事件もあった。

 信濃に塩を売る商売をしていた塩座の商人たちが家康から独占販売と免税の特権と引き換えに信濃国境で情報収集に当たっていたものが、弥四郎事件直後「逆心」によって数名が死罪となったのだが、その1人が塩座の支配頭だった松平新右衛門なのだ(『岡崎領主古記』)。そう、弥四郎の一味の新右衛門で、塩座の商人たちはその手足となって信濃国境で逆スパイをしていた可能性が高い。

 他にも、岡崎城下の商業街・連尺町では有力商人畔柳氏による「畔柳甚蔵一揆未遂事件」というものも起きた。

 三河の商人たちは続々と家康を見捨て、武田勝頼を担ごうとしていたのだ。家康は実に危ないところだった。

 この破滅的状況を一発大逆転に持っていったのが「長篠の戦い」だった。この戦いについては以前に述べたので今回は割愛し、次回は武田家滅亡あたりから話を再開しよう。

【参考文献】
『NHKさかのぼり日本史(7)戦国 『富を制する者が天下を制す』』(小和田哲男、NHK出版)
『服部半蔵と影の一族』(橋場日月、学研)
『新編岡崎市史』
『増訂織田信長文書の研究』(奥野高廣、吉川弘文館)ほか
連載「戦国武将のマネー術」の過去の記事はこちら。 

   
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