2024年11月24日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2024年3月12日

 もちろん武田征伐戦はすでに終わっているから合戦の手柄ではない。信長凱旋ツアーの仕切り役としての評価だった。ただし、家康は3人目の仕切り役である。

 まずトップバッターは滝川一益だった。4月2日に彼は台ヶ原(下諏訪から甲府へ向かう甲州街道の宿場で、江戸時代大いに栄えた)に信長のための一夜限りの御座所を用意してお泊まりいただいている。500人のお供にも小屋を作って、ちょっとした町が出現したという(『甫庵信長記』)。むろんお食事付きだ。

 お次のツアコン役は織田信忠。信長嫡男、武田征伐の総大将がおんみずから武田の本拠・古府の躑躅ヶ崎館跡に美々しく且つ頑丈な仮御殿を建設して信長一行を迎え入れた。一益の上官だから、より一層高い予算をかけて父をもてなしたに違いない。

 ちょっと本筋から脱線するが、信長はここで丹羽長秀・堀秀政・多賀常則(たがつねのり)の3人に休暇を与えて上野国の草津温泉での湯治を許し、黄金100両ずつを下賜している。現代なら2000万円程度だ。

 武田討滅で上野国と信濃国2郡をもらった滝川一益や信濃国4郡加増の森長可らと違ってこの溫泉トリオは武田征伐に参陣したものの領地を賜った訳でもなく、この100両はお疲れ様の溫泉でかかるだろう小遣いという意味合いのものだったのだろう。「会社の経費で落として良いよ」とは何とも豪儀だが、彼らに上野国で散財させれば新領主の一益の立場も良くなり人心収攬にも役立つという計算もあったに違いない。

 話を信長お泊まり接待の件に戻す。

 3日から躑躅ヶ崎館跡の仮御殿に滞在して旧武田領の仕置きをおこなった信長が同地を出立したのが一週間後の10日。ここからが家康の出番だ。まさに真打ち登場、そのツアコンの優秀ぶりは前二者をはるかに上回ったようだ。信長一行、この日は15キロ南に下った右左口(うばぐち)に宿営する。

 右左口は、古府から駿河に出る最短コースで富士山の西側を通る中道往還の要衝として武田家にも重要視された土地だが、家康はそこに至るルート上の笛吹川に架橋し、道路を拡幅して石を取り除いて水を打った。

 信長一行がびしょ濡れになって河を渡ったり、狭く見通しの悪い道で身動きできない状態のなか敵の襲撃を受けたり、石につまづいたり、土埃で一行の目や喉を痛め信長の装いがホコリまみれにならないように全力フルパワーで交通インフラを整備した。

 そのうえ道路の両脇にはビッシリ兵を並べて水も漏らさない構えで一行の通過を警備する。

 右左口の信長御座所は二重三重の柵で守られ、そのまわりには兵たちの陣小屋1500棟がビッシリと囲む形。信長の供廻りは500人なので、それ以上の数の徳川兵が外側の棟に泊まって守る態勢だったのだろう。

 翌日信長一行は南下。その途次には華麗な茶屋が用意されご休憩、本栖でのお泊まりにも右左口同様の贅沢な宿泊施設が用意されていた。家康の整備がその後の宿場としての右左口繁栄の基礎を築いたともいう。

イチから造った豪華な旅館

 次の日は富士山見物のあとで信長一行は駿河国に入り、富士大宮に到着。金銀が鏤められた豪壮華麗な仮御殿で一夜を過ごす。

信長は富士の裾野の原野で「おくるひ(御狂い)」したという。狂ったように馬を駆けさせたのだろう(筆者撮影)

 「ケチで知られた家康のことだ、既存の施設に手を加えたんだろ」と思われるムキもおられるかも知れないが、あいにくと本栖から大宮までは今回の武田征伐で後北条軍がことごとく焼き討ちしてしまい、焼け野原状態。家康は20日あまり前からすでに準備を始め、そこにまったく一から施設を作り上げたのだ(『家忠日記』)。


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