信長は江尻城、田中城、掛川と泊まりを重ね、富士山麓の原野や三保の松原を見物した。大井川では徳川兵が河中の上下にずらりと建ち並んで河の流れをやわらげ、その間を信長一行が通ったというのは有名な話だ。浜名湖では家康の家来の渡辺弥一郎が観光ガイドを務めたのを褒賞して黄金を与えている。
こうして甲斐、駿河、遠江、三河を通過して信長は4月18日、岡崎から知立に到着。ここで家康のお役目は無事完了した。やれやれ、お疲れさまです。
8日に渡る信長接待ツアーを開催した家康。果たしてその費用はいくらぐらいだったのだろうか?
徳川兵を除いて信長の供廻り500人に食事を提供するだけで最低でも数百万円が飛ぶ。江戸時代の大名行列なら甲府~知立の70里で5000両近くを必要とした(500人換算)から、やや乱暴ではあるが5億円ほどが必要だった、と仮定しておこう。その上に3泊分の豪華絢爛な仮御殿と1500棟の小屋、厩、さらに休憩用の茶屋の建設費が上乗せされるし、それをわずか20日ほどで用意したことを考えるとトータル10億円以上は掛かっても仕方ないだろう。
これに対し、信長からは行程を通して吉光の脇指と一文字長刀各1振、馬1頭と黄金50枚分の米が下賜されたが、1億数千万円程度と計算すれば家康の出費に対してとても引き合う額ではない。米は直後に家臣たちに配布してしまったので、なおさらだ。
果たせるかな、信長は家康に安土へのインビテーションをおこなった。「駿河拝領の礼参」という名目でオモテナシをし、天下人としての面目を示そうというのだ。
2人の運命を変えた接待の応酬
かくして家康、5月11日に浜松を出立。岡崎から尾張に入り、美濃国経由で14日に近江国番場(琵琶湖東岸、現在のJR米原駅の近く)へ到着。用意された居館に宿泊したという。
家康が信長に提供した仮御殿同様、1泊だけとはいえ信長も手厚く家康を迎えたのだった。そして翌日安土に到着した家康は5日にわたって盛大な饗応を受ける。
この1カ月余りの接待の応酬が、信長と家康の運命を大きく変えるとは、このとき誰が想像しただろうか。