マネーバランスでさあ大変
ここで、本稿で紹介してきた信長と家康の間で動いたマネーを整理してみよう。
信長→家康 黄金23億円
天正10年(1582年)武田征伐後
家康→信長 兵糧献上1億円?(『当代記』)
信長→家康 兵糧下げ渡し1億円
同年 信長凱旋ツアー
家康→信長 経費10億円以上
同年 家康安土伺候
家康→信長 黄金・馬鎧12億円
不思議と贈答の金額が均衡していることにお気づきいただけただろうか。ということは、信長が1000両(2億円程度)を返却したのはこのバランスを崩す意味があったとは考えられないか。家康が「いただいた分はキッチリお返しします」と申し入れても、信長は「いや、全額は返してもらわんでもいいがや、2億円まけとくでよ」ってなもんだ。
家康はかつての対等な同盟関係をここでひそかに再確認しておくことで今後も「自分は織田家の特別な存在」という地位を確保したいと考え、信長はそんな家康の思惑を見抜いていやいや徳川は今や完全に臣下ですよ、とディスカウントしてやる事で立場の上下を改めて天下に示そうとする。朝貢貿易ではないが、利益を与える者が主でもらう者が従なのである。
19日、信長は安土城内の摠見寺(そうけんじ)で猿楽を興行して家康をもてなすが、その席には太政大臣・近衛前久も招かれていた。
前久は信長と昵懇で、武田征伐にも従軍している。この月の内に太政大臣の職を辞任するのだが、それは朝廷が前月信長に行った有名な「三職推任」(関白、太政大臣、征夷大将軍の内いずれかの職を信長に与える)について、太政大臣の線で話をまとめようとして自分の職位を空けたのだろう。
これは2月の就任の時点ですでに朝廷が書いたシナリオ通りの展開だと思う。親密な前久が自分の職を信長に譲ると言えば、信長も断るまいという計算を働かせたのだ。
一方の信長は、元関白で太政大臣という公家社会の最高位にある前久をこの場に陪席させる事で、家康の完全臣従という武家の新秩序を朝廷にも確認させる必要があった。武田家滅亡と関東仕置きについてはすでに前久みずからが現地でそれを確認したのだから、後は家康との地位関係確定を前久が見届ければ、それがすなわち朝廷からの公認という事になる。その上で自身が前久から太政大臣を譲られるのを諾するのか拒むのかの腹づもりについては別のテーマなのでここでは触れずにおこう。
家康宿所をめぐる混乱等、織田家中のいざこざを乗り越えこのセレモニーが無事挙行されたことが、信長はよほど嬉しかったのだろう。彼は宴席で手ずから家康に膳を運んでいる。家康にとっては、マネーによる駆け引きに敗れた形となったわけだが、こうまで喜ぶ信長を見ると苦笑いするしか無かっただろう。
家康が京方面に去ったのが5月21日。「安土の7日間」が終わった後、11日後に明智光秀が本能寺の変を起こす。