2024年11月22日(金)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2024年7月15日

 きっと彼の側室たちもふたたび利殖に励み、損失を補填した上でさらに利益を積み重ねていったことだろう。いずれにしても、駿府城本丸には2度の造営で3000億円以上が注ぎ込まれたのではないだろうか。

猿にしてやられた狸

 一方の秀頼である。彼は寺社の再興・修理にどれほどのマネーを注ぎ込んだのだろうか。

 その総額はとてもじゃないけど把握できないのだが、一番有名な「方広寺大仏殿の再建」については、秀吉の遺産の分銅金(太閤分銅金)という大判1000枚分を分銅の形に鋳たものを家康が米と引き換えに受け取り、それを江戸の金座で大判に吹き直させた、という記録がある。分銅金は小判にすれば1万両、20億円の価値があるはずなのだが、実際に吹き直させてみると1000枚に34~5枚足りなかったらしい(『当代記』)。

 3.5%ほどサバを呼んでいたあたり、亡き秀吉も子供のようだ。家康が大判金1000枚分というのを信じて米に換えたとすればまんまとしてやられたわけで、「死せる秀吉、生ける家康からぼったくる」となった次第。ともかく、おそらく作業員に配って食べさせる米の確保だけで1回20億円近いお金が必要だったのだから、2年足らずの工期でトータルいくらがかかったか、想像するだけで恐ろしい。

 これだけで駿府城本丸工事に匹敵するぐらいのお金がかかったのではないか。それでも豊臣家の金蔵は軽くならない。

 「こうなったら徹底的に大坂城への入金ルートを塞いでしまえ」

 家康は、慶長14年(1609年)、諸国に灰吹銀および筋金吹分の禁止を触れ出した(『上杉編年文書』)。灰吹銀とは鉱石の銀をいったん銅に溶け込ませたうえで銀を抽出する精錬方法で作られた銀のこと。そして筋金吹分とは鉱石から金銀を抽出する精錬作業そのものを言う。つまり、銀の自由な精錬作業と、それによって作られた銀の所持・使用を禁じたという事になる。

 幕府の直接支配下にないマイナーな銀山について精錬を禁止し、大名が大坂で米取り引きなどを銀決済できないようにしてしまえば豊臣家に銀が流れ込むことも無いというわけだ。そのうえ海外貿易の決済に使われる銀が精錬できなければ、銀山を持つ大名は貿易にも参加できない。一石二鳥の政策だった。

 「これだけやれば、大坂城に入る新たな金銀は先細るはずだわ。寺社仏閣の再建や修理で城内の金銀は出て行く一方だでな」とほくそえむ家康。だが、そうはいかなかったのは前述の通りだ。

 その財力の源泉として秀吉が各地の金銀山から集めた運上や、全国規模の流通操作で得た利益がその中心となっていたはずだが、それだけではない。秀頼には、なにより大坂というドデカイ「金のなる木」が残っていた。

大坂・アズ・ナンバーワン

 大坂は、大坂湾によって瀬戸内海・熊野灘・伊勢湾と結ばれ、淀川によって京と結ばれ、四通八達した道路によって奈良や山陽など諸方に結ばれ、石山本願寺全盛の時代「日本一の境地」「日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟海上に出入り、五畿七道集まりて売買利潤富貴の湊なり」(『信長公記』)と称えられた一大商業集積地である。

 秀吉はそこへさらに資本を投下し、堺商人や平野商人らを移住させ、一段と巨大な経済都市へと発展させた。

 大坂の町を見た外国人は、「当地は日本国中最も立派なる所にして、人口は二十万あり」(スペイン人『ドン・ロドリゴ日本見聞録』)、「数万余戸を下らず」(朝鮮通信使『慶七松海槎録』)とその規模と繁栄ぶりに驚嘆している。

 そしてオランダ人・フェルフーフェンは「日本の最も美にして大なる商業市」と呼び、それが生み出す巨大な富によって「(秀頼は)大なる歳入を有し」(『和蘭東印度商会史』)ている、と紹介したように、大坂は豊臣家の財政を潤し続けていたのである。


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