伊木山は鵜沼城よりも45メートル(m)も高い。鵜沼城からすれば、頭の上から敵に覗かれているようなものだ。
しかも信長みずから出向いて来ているのだから、その兵数も多い。こりゃたまらん、と城を捨てて逃げ出すのも無理はない。実際、猿琢城の方は攻め立てられてあっさり降伏している。
寝返りの代金は1億円?
だから、仮に大沢次郎左衛門の織田従属について豊臣兄弟が絡んでいたとしても、その働きはかなり限定的だったのではないか。大沢次郎左衛門は強大な織田軍への抵抗を諦めて降伏を決し、秀吉を介して城を明け渡して、士卒は斎藤方に戻る者、織田方に帰属する者に分かれたのだろう。次郎左衛門はもちろん織田方に従った、という流れだ。
そうすると、ドラマで秀長が次郎左衛門調略のために広げていた銭が気になる。次郎左衛門調略工作資金として秀長が用意したのが、見たところ銭緡10本ほど=1貫文。これが論功行賞で秀長に与えられた銭50貫文の一部だろう。
これは次郎左衛門の買収用資金ではなく、あくまでも周辺に次郎左衛門内通の噂を撒いて孤立させる為のニセ書状配布活動向けに限定されたもので、だいたい10万円。現代のポスティングなら2万枚配って回らなければならない。これは大変。
では、次郎左衛門を買収しようというならいくらぐらいかかるだろうか。
さきほど書いた加治木城寝返りでは、信長は「これで兵粮を買い入れよ」と黄金50枚を与えている。これは1億円にも上ろうかという大金だから、買収金額としてはアリ寄りのアリか。とても50貫文(500万円)程度では買収はできないのである。
ちなみに、猿琢城を落としたのも丹羽長秀だったし、加治木城寝返りの窓口となったのも長秀だった。ドラマよりも長秀は木曽川沿岸の諸城制圧プロジェクトを主導し、鵜沼城に関しても彼の下で豊臣兄弟が一部関与した、という程度がリアリティのある設定だったろう。これに加えて、さらに面白いエピソードも追加できるかもしれない。
永禄7年(1564年)の信長による犬山城攻めと連動して、秀吉が鵜沼城を攻撃したというのだ。犬山城を救援できないよう牽制するためだったのだろうか。このとき長井道利が後詰めに出撃したものの、秀長がその側面を衝いて秀吉の危機を救ったとなっている。
この結果、翌年には長井の関城(鵜沼城・猿琢城の北)も陥落した。鵜沼城の大沢次郎左衛門が寝返るのも、まずはこうして強面の部分を見せた上で孤立に追い込み、それからおもむろに調略にかかった周到さが功を奏したというのが案外リアルな流れだったかも知れない。それなら黄金50枚の効果もさぞ高くなっただろう。
この方がドラマ的な駆け引きもあって面白いのではなかったかな?
