戦国史で幾度も重要拠点に
そんな場所だから、実は墨俣は何度も戦国史に顔を出している。永禄4年(1561年)には、斎藤義龍の死を知ると同時に美濃に侵入した信長勢に対し、墨俣から斎藤勢が出撃して来て合戦に及んだ。
ちなみに当時信長から勘気をこうむって牢人していた前田利家が「首取り足立」と呼ばれた豪傑(他1人)を討ち取って信長から帰参を許されたのが、この戦いだ。これで利家は牢人前の知行150貫文から450貫文(ざっくり1500万円→4500万円)に昇給を果たしている。ドラマで信長が利家の事を「一度は追放したが」と触れるのは永禄6年(1563年)のこととして描かれていたが、実際はこの様に2年前の話だったのである。
閑話休題。永禄4年、墨俣から斎藤勢が出撃して信長と戦ったということは、この時点では墨俣にある程度兵を待機させることが可能な斎藤方の砦が存在していたという訳で、この戦いに勝利した信長は墨俣の「御要害丈夫に仰付けられ」と、占拠した砦を改修強化させてそこに滞陣し、9日後に稲葉山城から攻めて来た斎藤軍相手に砦から出撃、夜まで戦って明くる朝に墨俣砦に戻ってから尾張へと引き揚げて行ったのだった。
信長はこの時墨俣砦に守兵を残した形跡は無い。なぜ大事な拠点を確保しなかったのか、また史実であればなぜ秀吉がまた砦を築くことになったのか。
これは想像だが、暴れ川の氾濫にしょっちゅう見舞われていた墨俣のこと、砦を築いても洪水ですぐに流されてしまっていたのだろう。土塁をあげても櫓塀を付けても川が氾濫すればひとたまりも無く砦は消え去り、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの際にもまたまた墨俣城が築かれている。
