信長の方針転換
ともあれ、大沢次郎左衛門を味方につけ鵜沼城ほか稲葉山城の東側を手に入れた織田信長だったが、それで稲葉山城攻略が進んだかというと、さにあらず。永禄9年(1566年)にも木曽川で斎藤勢に大惨敗を喫して「鎧や武器まで捨てて逃げて木曽川に飛び込み、無数の者が溺死した。前代未聞のことだ」と斎藤方に嘲笑されるほどの大惨敗を喫してしまったのだ(「中島文書」)。
これでは拉致があかない、と思った信長は、今度は稲葉山城の西に新たな攻め口を求めた。
「墨俣砦」である。
秀吉の出世譚の最初の華々しい戦功として紹介されることの多い「墨俣一夜城」伝説の舞台で、ドラマでもその伝説に沿って秀吉が木曽川上流であらかじめ伐採し加工した木材を特急で組み立てて砦に仕立て上げたという流れで語られていた。
だが、この墨俣という土地自体について取り上げられることは少ない。信長が奪取を企てた墨俣というのは、どういう性格を持つ場所だったのだろうか。
まず戦略的な観点から見てみよう。
墨俣は、岐阜と大垣の間を取り切る位置にある。大垣には美濃三人衆のひとり・氏家直元が居るが、ここが落ちればその後は時計回りに同じく三人衆・稲葉良通の曽根城、同・安藤守就の北方城と陥れていけば、稲葉山城の西側は完全に丸裸。墨俣はまさに西美濃の死命を制する場所だった。
そして政略面で見るならば、その頃の墨俣は、その名の通り「洲の俣」で、長良川と木曽川が合流点だった。それに加え鎌倉街道(京鎌倉往還)も通る水陸の重要交差点でもあり、必然的に渡し場、さらに宿場が繁盛したし、「市脇」という地名も周辺にあった様なので、市場も近くで立てられていたのだろう。
墨俣は美濃の経済を左右する経済HUBでもあったのだ。
