2026年5月14日(木)

造船立国ニッポンへ

2026年5月14日

 日本の建造量が英国を抜いて世界一の座に就いたのは1956年。今からちょうど70年前のことである。日本の貿易量の99%以上を担う海運は、国家の存立を支える基盤そのものであり、海運を下支えする造船業は、日本の「生命線」ともいうべき産業である。

戦艦「大和」の建造で培われた技術は戦後日本の造船業を発展させる礎にもなった(月刊丸/AFLO)

 その意味で、今般示された「造船業再生ロードマップ」の実効性をいかに高めるかが問われている。

 重要なことは、ロードマップを「産業政策」の一つとして捉えることから脱却し、現在の造船業を取り巻く課題は、単なる産業の浮沈ではなく、日本の将来に直結するものであるとの認識を持つことだ。そのためには、明治維新以降の歴史や教訓を踏まえたうえで、日本の造船業や国家のあり方を見定める視座を持つことである。さらに、造船・海運分野で急速に存在感を高める中国の動向も注視しなければならない。

 戦前には日本有数の軍都として、戦後は日本の造船業を牽引する地として発展した広島・呉の歴史を軸に振り返り、そこから現代への示唆を探ってみたい。

戦艦「大和」を建造した
「東洋一」の軍港の街

 「あれ、おじいさんが写ってる」

 呉市出身の田村幸雄さん(仮名)は2014年に帰省した際、大和ミュージアムを訪れた。「戦艦大和・武蔵の進水式展」が開催されており、展示物の写真の中に、祖父が写っているのを見つけたのである。

 「祖父は戦艦『大和』の建造に携わった技術者でしたが、なぜこの写真に写っているのか、私自身とても驚きました。祖父は軍属として大陸にも渡り、イギリス軍の捕虜となった経験もあります。日本へ戻ってきた時には、骨と皮ばかりにやせ細っていたと祖母は語っていました。

 祖父は私が小学3年生の時に亡くなりました。もともと口数の少ない人でしたが、『大和』の建造については、軍機に触れることもあったのでしょう。語りたくても語れなかったことが多かったのだと思います」

 1937年7月7日、盧溝橋事件に端を発した日中戦争直後の同年11月、戦艦「大和」は仮称・第一号艦として起工、40年8月8日に進水した。翌41年、真珠湾攻撃直後の12月16日に竣工し、連合艦隊の旗艦として、太平洋戦争を戦った。

 戦艦「大和」は船体を部分ごとに建造するブロック建造法や先行艤装、電気溶接法といった革新的な工法・技術で建造され、まさしく、日本海軍の技術の粋を結集した巨艦であった。全長263メートル、世界最大の46センチ砲を搭載し、その威力は一撃で敵艦1隻を無力化できる威力があるとされた。排水量は超弩級の6万5000トンでありながら、27.5ノット(時速約50キロ・メートル)の高速艦であり、まさに「大艦巨砲主義」の象徴だった。

 だが、当時は、戦艦「大和」が建造された事実すら知らない国民が多かった。ましてや、沖縄海上特攻の旗艦として出撃し、45年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖で米軍の航空機による猛攻撃を受けて沈没したことも、戦後しばらくは広く知られることはなかった。


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