2026年5月14日(木)

造船立国ニッポンへ

2026年5月14日

 では、マハンは、何を伝えたかったのか。麻田氏前掲書には「『海上権力』は『海軍力』よりも広義で、単に軍事力にとどまらず、艦隊力の基盤をなす海運業や商船隊、またその拠点として必要な海外基地や植民地をも包含する」とある。

 上図のように、マハンは「シー・パワー」の要素のうち、三つの「連鎖」として「生産、海運、植民地」を挙げ、それらを支える海軍力を加えた総合的な「シー・パワー」が国力伸長の核心であると看破した。

 さらに麻田氏が注目するのは、マハンが執筆活動に着手し始めた1870年代は、米海軍が衰退期に入った時期と重なる点である。

 当時の国民は、大西部の開発や農業の飛躍的拡張、鉄道の建設など、国内発展に没頭しており、海軍に対する関心は低調を極めていた。そうした状況下で、マハンは三つの「連鎖」のうち「アメリカはまだ『生産』しか所有していないが、アメリカ国民には海洋発展の偉大な素質があり、それが自由に発揮されれば、大海上権力国への道が開けるだろうとマハンは信じた」とする。

 また『海上権力論』について麻田氏は「戦時の艦隊決戦だけでなく、平時において世界の貿易システムを守るというより広い任務をも強調していた」と指摘する。

 一方で、日本海軍はこうしたマハンの考えを正確に理解できていなかった可能性がある。

 「日本海軍の戦略思想は、マハンよりもマハン的な教条主義に凝り固まっていた。日本の戦略は、戦艦中心主義、主力艦隊決戦、船団護衛の軽視など、どの点をとってみても、マハン理論を一段と硬直させたドグマであった。(中略)それは、マハンの『影響』というより、マハン理論の選択的・恣意的・意図的な曲解、誤読、歪曲の結果というべきであろう。(中略)日本海軍の指導者を真珠湾攻撃に導き、東京湾上での無条件降伏をもたらしたのは、『マハンの亡霊』であったと言えるかもしれない」(麻田氏前掲書)

 さらに秋山真之らのマハン思想摂取は批判的かつ現実的だったが、その後は陸軍に対抗した海軍予算拡張と優位を正当化するためにマハン理論を援用したと麻田氏は指摘する。

そして迎えた敗戦……
残った「大和」の技術遺産

 日本は完膚なきまでに敗れた。その喪失の大きさを痛切に語ったのが、『軍閥興亡史』などの著書がある昭和期屈指の海軍記者・伊藤正徳である。同氏は、『連合艦隊の最後』(光人社)でこう述べている。

 「連合艦隊の最後は、哀れという文字の代表であった。その敗北は、惨憺という表現の極致であった。(中略)『惜しい』最大のものは、世界第三位の海軍力を全損したことだ。世界第一の軍艦を失ったことだ。世界第一の兵器が無駄になったことだ。(中略)政治を誤らなかったならば、軍閥が日本を支配しなかったならば、また海軍に開戦反対の勇気があったならば『失われずにすんだ』ことを顧みて『惜しい』想いは、いよいよ痛切ならざるを得ない」

 敗戦後、軍港機能が失われた呉市内には失業者があふれた。

 一時はその数が1万人を超え、「失業モデル都市」とも呼ばれたが、1950年に平和産業港湾都市への転換を目指す「旧軍港市転換法」が公布・施行され、呉にあった海軍の土地・建物は民間でも利用できるようになった。

 こうした中で、戦後日本の造船業を牽引する一人の人物が現れる。

〝ミスター合理化〟と呼ばれ、第二次臨時行政調査会会長も務めた土光敏夫に見出され、石川島播磨重工(現・IHI)へと迎えられ、後に同社社長になった真藤恒である。

造船界を牽引した真藤恒の哲学から学べることは多い(東洋経済/AFLO)

 徹底した改革姿勢から〝ドクター合理化〟の異名をとり、IHI退任後の81年には日本電信電話公社総裁になって民営化に取り組み、85年にNTT初代社長に就任した。また、社長就任から3年半後のリクルート事件で「懲役2年、執行猶予3年」の判決を受け、その後ほとんどマスコミに登場することはなかった。まさに、異色の経歴を持つ人物だ。


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