そうじゃないとお公家さんが驚くような豪華な屋敷や座敷なんて建てられないし、超高価な大名物茶器なんか買えないよね。刀剣マネーが茶器に化けたわけだ。
それでも信長家の懐事情は
でも、ここでちょっと疑問が起きてくる。『信長公記』にこんな記述があるのだ。
「御台所まかない(経理・財務)の担当重役は政秀で、極端な財源不足だった」
今まで見て来たように、財力豊かな政秀が経理を担当したのに、なぜ那古野城(現在の名古屋城の前身)の主・信長の懐事情がそんなに厳しかったのか。
一つにはオヤジの信秀が美濃の斎藤道三や三河の松平広忠との戦いにお金をジャブジャブとつぎ込んだせいでもあるだろうが、もう一つ、ひょっとしてひょっとしたら、政秀が使い込んじゃってたじゃないか、という。
あくまでも可能性の話ながら、信秀の死の翌年というタイミングで政秀が切腹して果てたのも同書は信長の不行跡に絶望したためとしているが、そんなドラマのような話ではなく茶器・連歌の数寄道楽がらみのスキャンダル発覚によるものだったかも知れない。
織田家の外交をキレッキレの社交術によって成り立たせていた政秀が「社交にマネーは必要。その必要経費を織田家の負担とするのは当たり前ではないか」と考えたとしても不思議は無いし、反対派が「社交など遊興娯楽に主家のお金を流用するなど以ての外。背任横領にあたる!」と糾弾するのも理解できる。
そりゃ、武骨な連中は茶器より刀、連歌より槍ですよ。ともあれ、茶湯を愛した政秀は確実に信長にも影響を及ぼしたことは間違いないだろう。
信長を茶器収集へと動かしたもう一人
平手政秀の死から14年後の永禄10年(1567年)信長は美濃を併合し、さらにその翌年に上洛戦を敢行して京を制する。そこで信長がおこなったのが、有名な「名物狩り」だ。
このとき服従してきた松永久秀が信長に「九十九髪茄子(つくも茄子)」という1000貫(7000万円程度)の価値がある大名物茶入を献上した話は、以前久秀の回で紹介した。
このとき、久秀を同道したのが、堺の豪商で茶人でもあった今井宗久だ。宗久はこれも大名物の茶壺「松島」・茶入「紹鷗茄子」を信長に進呈する。
「紹鷗茄子」は前の持ち主が120貫で入手したものを武野紹鷗が600貫で買い取ったという記録がある。1000万円から5500万円。前回「戦国時代に茶道ブームを引き起こした武野紹鷗の戦略」で紹介した紹鷗の茶器バブルというやつだ。
「松島」はさらに上をいく。「三日月」という茶壺と双璧の名器だが、さらに「ふたつの内なら『松島』の方が優れている」と評価された。その「三日月」が5000貫、1万貫(3億5000万円、7億円程度)という評価額がついたというのだから、「松島」はいったいいくらの値が付いた事やら。
信長は宗久と久秀から茶器を贈られ、そのバブリーな高騰ぶりを目でも耳でも実感し、「こんな確実な投資対象は無いではにゃーか」と色めき立った。亡き平手政秀の顔もちらついたことだろう。