信長による豪快な〝買占め〟
茶器の売買取り引きについてはイエズス会宣教師フロイスが「品質・形状・流行り廃(すた)りをキチンと目利きして売買の仲介をおこなう〝宝物商〟がいる」と記録したように、当時すでに茶器ブローカーと言える業者が存在していた。彼らが仲立ちして豪商などが勝手に売り買いするマーケットで、これだけのインフレを起こしている茶器だから、もし一手に買い占めてしまえばもっと値段は上がるに決まっている。
そこで信長、早速行動を開始。明くる永禄12年(1569年)、「金銀・米銭は十分にあるで、これからは唐物(中国製)、天下の名物茶器を集めるのだわ」と高らかに宣言した彼は、茶入「初花肩衝」「富士茄子(ふじなすび)」、「竹茶杓」、花入「蕪無(かぶらなし)」「百底(ももぞこ)」、玉澗(ぎょっかん)筆「雁の絵」と強制的に買い上げていった。
これが有名な「信長の名物狩り」と呼ばれるもので、次の年にもいくつかの名器が購入されている。その総額がいくらになったかは知る由も無いが、大名物の「初花」「富士茄子」を含んでいるのだから、ふた桁億円のマネーがとんでいったのだろう。
信長といえば永禄10年(1567年)の美濃併合直後に岐阜城下の加納市場に布告した「楽市令」が有名。その中で信長は「押し買い・押し売り、一切厳禁」と定めた。無理矢理安値で買ったり高値で売ったりする行為を排除して安全取り引きを保障したのだが、その張本人が2年後に自分が茶器の「押し買い」をしているのだからこれこそまさしく「おま言う」の極み。それでも手を出してしまうほど甘い誘惑だったわけだ。
宗久が信長から得たものとは
一方、信長をして甘い誘惑に覚醒させた当事者の宗久。彼は武野紹鷗の娘婿で、紹鷗から茶道を学びながら同業の皮革製武具の商人として活動していた。
ここでもやはり茶道練達の大前提は財力。その宗久が、「紹鷗茄子」と「松島」という、紹鷗ゆかりの2品を信長に捧げたわけだが、彼が引き換えに得た物は大きかった。
まず、堺の北隣・摂津国住吉に2200石の知行地を信長から付与される。2200石の知行地から年貢として得られるのは、4公6民として880石、4000万円程度。武士と違って商人の宗久は家臣として侍を召し抱える必要も無いから、それをまるまる収入としてカウントできる。数億円のプレゼントも、数年で元が取れてしまう計算だ。
さらに摂津五ケ庄の塩・塩合物の徴税の権利と代官職、淀川の過書船権もゲット。過書船権というのは船舶輸送の特権なのだが、京と大坂を結ぶ大動脈である淀川を運航する輸送船があげる莫大な利益は大きい。
そして元亀元年(1570年)には生野銀山の代官にもなった(もっともこちらは羽柴秀吉が但馬に攻め込んで武力統制を敷くまで、なかなか上手く回転しなかったようだけどね)。
トータルでカウントすれば、彼の茶器献上は相当な差し引きプラス効果を生んだことになる。
『信長公記』(角川文庫)
『石山本願寺日記』(清文堂)
『日本歴史地名大系 21 岐阜県の地名』(平凡社)
『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』(同上)
『戦国大名の経済学』(川戸貴史、講談社現代新書)
『フロイス「日本史」』(中公文庫)
『茶道古典全集』(淡交社)
『増訂 織田信長文書の研究』(奥野高廣、吉川弘文館)