以前に紹介した、茶入「九十九茄子」を覚えておいででしょうか、そう、前年に松永久秀から信長に献上された、スペシャル名器。久秀が入手したときは1000貫文(1億円)だったものが、信長の手に渡ったときには更に跳ね上がっていたようで、宣教師のルイス・フロイスが『日本史』中で「3万クルサード」の価値、とレポートしている。
「クルサード」というのは当時のポルトガルの金銀貨なのだが、1 クルサードは日本では金の小判0.23両、おおよそ2万3000円。だから、3万クルサードは6.9億円(一説に10億円以上とも)に相当する。
7倍近いプレミアになっていたことがこれで分かるのだ。当然、他の茶器もインフレしており、信長自身が金銀米銭はたっぷり有ると言っても、合計すれば矢銭徴収で得た金銀銭を軽く突破する高値になったのは想像に難くない。
それでなくてもこの時期信長は足利義昭のために二条城を造営したり、1万貫(御所の修理をおこなったりと、いくらお金が有っても足りない状態だった。フロイスも信長への献金をしようとして「そなたから金銀を受ける必要は無(に)ゃーで」と断られているが、これも信長の見栄と思えばかわいげも出てくる。武士は食わねど高楊枝なのよ。
主役は今井宗久から千利休へ
そんな「茶器狂騒曲」を仕掛けた今井宗久。信長の上洛と同時に名物茶器を献上したこの富商は、信長は茶器に興味がありそうだという情報を生かした、まさに〝情強(情報強者)〟だったのがわかる。
情報はただ収集し持っているだけでは意味が無い。それを積極的に用いてこそ初めてインフォメーション・リッチになれる。経営学者のドラッカーが「いかなる情報を、何のために、いかにして使うかを決めるのは、ユーザーである」と説いたように、どう活用するか、そもそも活用する〝覚悟〟と〝決意〟こそが、マネーを生むのだ。使わない情報は、死んだ情報なのですよ。
信長と上方の茶器を結びつけて新しいマーケットを創造した敏腕プロデューサーだった今井宗久。その宗久の流れを引き継いで、茶器マーケットを一段と大きくスケールアップさせたのが、言わずと知れた千利休です。
そう言えば、最近テレビの鑑定番組に利休の書状が出ていた。内容がいかにも彼が書きそうなものだし、筆致も良さげで、「これは本物だろう」と思っていたら、案の定1200万円の評価と相成っていた。
茶事に関する内容なので、オークションにでも出れば2000万円ぐらいまでいくかも知れない。ちょうど良いタイミングなので、この書状から利休編を始めよう! そうだそうしよう。
その内容を現代語訳しておこう。
「お知り合いの中に茶4斤3斤半ほどの渡壷をお持ちの方が居たら、欲しいです。金10でも、また12、3でも良いでしょうか、欲しいのです。さる方からのご希望なのですが、探して貰って、お二人のご尽力でなんとかお願いします。茶会が近いので、必ず欲しいのです。二つ欲しいのです。また、金5つほどのものも欲しいです。これもわたしの物を欲しいです」
書状の宛先は分からないが、日付は2月23日。「利休宗易」と名乗っているから、天正14年(1586年)以降のもの(「利休」号は天正13年9月3日~)。
次回でこの書状を検討して、それから千利休の、今井宗久を上回るマーケットプロデュース力について述べていきますよ。
『信長公記』(角川文庫)
『実践する経営者: 成果をあげる知恵と行動』(P.F.ドラッカー、上田淳生編訳、ダイヤモンド社)
『茶道文化選書 利休の年譜』(千原弘臣、淡交社)
『言継卿記』(太洋社)
『千利休の「わび」とはなにか』(神津朝夫、角川ソフィア文庫)
『茶道古典全集』(淡交社)
『増訂織田信長文書の研究』(奥野高廣、吉川弘文館)